INVISIBILITY
by スギオメル


イドミラーの反射を浴びて、一瞬目が眩みかけた。

 この暑さでボロ車のバッテリーがいかれるのも時間の問題だ。
 行き過ぎる対向車のビュイックやコンバーティブルは、寸分の隙なくウィンドウが上がっている。
 エアコンか、オレには関係のない代物だ。
 眠気に襲われる午後、クレイトン・ブーンは吹き込む生温い風を浴びる。窓へ乗せていた肘が日差しを吸い、赤茶色に変色している。肘の内側が汗で湿り気持ち悪い。
 水でも浴びたいぜ。
 1ブロックごとに常設される個人宅プールは、彼のためになど開放されていない。別にクレイトンがその一つへ飛び込んだとて、持主も大した迷惑は被らないはずだ。
 だがクレイトンは再びギアを入れ、溜息をつく間もなく鈍いスターターを作動させる。こんな時間に冷房もない車を走らせている無謀者は彼ぐらいなのか、車道はイースターの翌朝のように往来がかき消えていた。
 彼はふと、見慣れた生け垣を反対車線側へ見留め、つい車を停めた。手入れの滞りを証す新芽があちこちから顔をだし、クレイトンを多少失望させる。
 中庭へ続く芝生も同様で、どこか緑は生彩を欠いていた。
 建物全てがまだ喪に服しているのだろう。ホエール邸がその立地にあるのを忘れていたわけでもないのに、クレイトンはそこへ通った日々が遠い昔のように思えた。
 蒼穹へ羽ばたくカケスのような格好で、澄んだプールへ浮かんでいたジェームズ・ホエールが亡くなり、実質1ヶ月も経っていないというのに。
 老人を嫌悪しながら愛していたハンナはまだいるだろうか? 故郷へは感じたこともない郷愁に駆られ、彼はぶっきらぼうに置かれたデカンターのトレーを持つ賄い婦を思い起こす。琥珀色のアイスティーのイメージは、光年の速度でクレイトンの喉をアリゾナ砂漠へ投げ入れる。
 咽び泣くような音をさせエンジンを止めると、彼はキーを引き抜き車を下りた。かつて任されていた庭へ、クレイトンは入っていく。警報装置はもちろんジャーマンシェパードの先制攻撃もない。
 庭は世話人を忘れる不義理とは無縁とでも言いた気に、彼を静かに迎えてくれた。クレイトンはそんな微かな得意に忍び笑うが、いつしかそこが深夜の墓地にとても似ていることに気づいた。静寂と熱波は相容れない要素に属されそうだが、ここには珍しいことにそれらがうまく共存していた。
 彼は老人に初めて招待されたアトリエへ向かう。あったことも知らなかった鍵がかけられ、中の構成品すべてにベールがかけられていた。人の使用が断たれた陰気で、入らなくとも鼻をつく黴臭さが想起される。わかっていながらクレイトンはどこかで悲しんでいる自身へ嫌気がさし、足早にその場を去った。
 キッチンの裏口は、しかし開いていた。
 ハンナだ! 彼は途端小走りになってしまう。テーブルで無心に芋の皮むきをしている老女を見たように思ったのも束の間、そこもがらんとした無人の部屋でしかなかった。
 壁にかかった焦げ付きのパン、使用者が使いやすいように並べられていた棚の食器は悉く消えていた。クレイトンは訳もなく眉を寄せては唇を噛み、駄々っ子のようにその場へ蹲る。去った者と残された者。後者の自分を憐れむことができるほど、彼はまだ哀しみを自覚できない。
 指定席だった椅子に腰掛けても、どこか来慣れない教会にでも座らされている居心地悪さを感じ、すぐに立ち上がってしまう。帰ろう、クレイトンは思った。そして二度と来てはいけない、と自身へ言い聞かせた。
 殺風景な部屋とはいえ、ここを知っていたという証拠を自分なりに何か残したい、彼はそう考え辺りへ視線を巡らせてみた。老人が誉めてくれた入れ墨のような証。棚脇奥の目立たない箇所へ刻印場所を決め、彼はポケットナイフを取り出し傷付けようとした。
 その時流れ始めた微かな旋律を、クレイトンの耳は辛うじて捉える。この家にあったか、思い出そうとするが、リビングにあった蓄音機以外は発音媒体の正体が思い浮かばない。彼はパイドパイパーへ従う子供のように、その音の出所へと歩を進ませる。
 そこは彼の知らない部屋への扉だった。使われなくとも良かったのか、通っていた頃開いていたのを見たことがない。
 畏れというよりは多分の好奇心で、全開される扉へ向かい足音を忍ばせる。そう、クレイトンにとってもこの家は、既に勝手知ったる他人の家でもなくなっていたからだ。
 部屋は隣室よりも大分狭かったが、そこは整頓前かそれとも後か定かでなく、壁を飾る額縁や調度品がそのまま残されていた。そして中央を陣取るように、室名の由来であるそれが、部屋主のごとく置かれていた。
 音楽室は物置になってるの、ハンナの言説を思い出すクレイトン。形はグランドピアノに似ているがそれより小振りで、漆黒に対し何より鮮やかな朱色に外観は塗られ、蓋の裏には美しい田園風景の描かれている鍵盤楽器を、彼はぼんやり眺める。
 クレイトンにもそれが何百年も前に書かれた古いメロディであることを知らせてくれる音色は、馴染みなかったが耳に快い響きだとも教えてくれた。老人が模写した絵画が音になったらこんな風だろう、彼はそれがすぐ自分を哀しませるとも知らず、典雅な音へ耳を傾ける。

 「ジューズ! オレの荷が足らねぇぞっ! ったくあの使えねぇ運送屋、料金さんざ釣り上げといてハンパな真似しやがって…」

 階段を駆け下りてくる騒音に音は途切れ、奏者を不快にさせた。が、気を取り直したか再び進行する指。

 「ジューズッ! 遊んでねぇでさっさと手伝え! んなオモチャあとからいくらでもいじれんだろがっ」

 バァーーーーーンンンン……。

 「…あのクソ野郎……」

 椅子のひかれる不興和音。クレイトンはやっと狼狽え始める。立ち上がってこちらを向いた相手の一瞥が、すぐ目を逸らしたのもまるでスローモーションを見るように彼には映った。
 奏者はそこにクレイトンなどいないというふうに彼の隣りでドアを閉め、中から鍵を掛けた。そのままもう一度楽器前へ戻ると、おもむろに先刻の曲を再開させる。
 ドンドンドンドンッ!
 背後を乱暴に叩く音に、クレイトンは半ば怯えつつそちらを見た。

 「ジュー…あ、何だこのヤロ、鍵かけやがったなぁ! てめぇの鞄運ばせっぱなしかよ。おら、開けろったらっ! ジューズ! のやろ、無視してんじゃねぇ!」
 「うるさいんだよ、原始人が。バッハとストコフスキーの違いもわからないお前に聞かせてるわけないだろ。いいからお前は身体だけ使ってろ」

 ドアの向こうではなおも抗議が続いていたが、室内から聞こえるのが旋律以外なくなると、罪のないドアの下方へ最後の一蹴りが加えられ止んだ。
 側頭部を掻きながら、クレイトンはゆっくり奏者の方を向いた。生真面目な横顔は目前の楽譜へ一心に注がれ、決して下へは向けられないのに、十指が過って濁った音を叩かないのが彼にはとても不思議だった。どこをミスしたのかわからないけれど、数小節ごとに指は止まり、度に直前から再現された。幾度か繰り返されるうち、クレイトンにも旋律のコーダやヴァースという意味がわからなくとも、音楽が頭へ焼き付けられてくるのがわかった。
 どこか見知らぬホールにいる錯覚の中、クレイトンはメロディが滞る一瞬に気づき顔を上げる。奏者と目があった。失敗を指摘された不快顔をされても仕方ないのに、彼はクレイトンへ微笑みかけた。

 「これ好き?」

とまだ名前も知らない青年が問う。クレイトンは途端自分が感ずるべき羞恥に支配される。脂じみたランニング、くたびれ果てた作業ズボン。返答も曖昧に、彼は相手の足元付近へ視線を落とした。青年は、クレイトンが見たこともない黒光りする革靴を履いていた。かつて彼が汚れたデッキシューズをこれほど恥ずかしいと思ったこともなかった。

 「ねぇ、聞こえたかい?」

 奏者は今ではクレイトンへ真正面に対座し、仕立ての良いのが彼にもわかる薄い空色のスラックスに包まれた足を組んだ。
 眩しいのは窓からの木漏れ日ではなく、光が反射しているブロンドだった。
 なぜか懐かしさを呼び起こすブルーの瞳が、クレイトンに気づかせない輝きを放ってこちらを見ていた。

 「…あぁ…まぁな……多分……」

 彼の控えめな肯定を全面支持とでも曲解しなければ浮かべられない笑顔を返し、青年は再び楽器へ向かう。そして同じ旋律を弾き始めた。

 「まだ完成じゃないんだけどあらかたいいんじゃないかなぁ? ほら、ここんとこがどうしてもさ…本当はパイプオルガンでやるんだけど左手はペダルのパートなんだ。僕には正式な右手なんて難し過ぎるからはしょらせてもらったよ。でもこれで十分さ。そう思うだろ?」

 クレイトンがわかったのは、それが辛うじて英語だということぐらいだった。彼は楽しそうに弾き続ける相手が決して応酬を望んでいないこともわかったので、黙っていた。

 「なんて曲か知ってる?」

と少しも答えを気にするわけではないと言わないだけで、青年が問う。何となくこの場の作法がわかりかけてきたクレイトンは、少し含み笑いをしてゆっくり首を左右に振る。
 その応答に瞬間こちらを向いたがすぐ頭を元へ戻した青年は、さらに晴れがましそうに頬を紅潮させて言った。

 「目覚めのコラール、って一般に言われてるけど僕はそういう大陸的な不正確は嫌いだ。いい?『目覚めよと呼ぶ声が聞こえ』が本当。覚えとけよ」

 今度は肝心の部分がもう英語ですらなくなっていたので、クレイトンは首を傾げるのが妥当だった。少し眉を寄せ逡巡する彼は、しかし演奏を止め風紀委員じみる顔を向ける相手に急いで頷いて見せる。
 ゆったりしたタフタをとるシルクのシャツを纏った青年の奏でる、優雅なメロディだけがしばらく続く。演奏は初めて滞りなく最終音へ辿りついた。新たな喜びを隠しきれず満足した顔をこちらへ向けた相手へ、クレイトンも精一杯全身で賞賛を示した。
 だが終えてしまった旋律を上回る端麗な顔が、対峙してまもなく奇妙な鈍化を辿るのを見、彼は少し動揺してしまう。

 「……君、誰?」

 一瞬背後を振り返った愚かさを恨めしく思う暇もなく、クレイトンはどうやら自分へ向けられた正当な問いの答えを取り繕わなくてはならなかった。
 言葉の形に口は動くのに、声は開店休業だった。
 何か後ろめたい行為をしたわけでもないのに、クレイトンは相手の瞳が怪訝に歪まなければいい、と願った。
 また随分悠長な不法侵入者もあったものである。

 奇声のあと、派手に飛び込んだらしい水の跳ねる音が続く。訳もなくおかしいのか単なる白日夢がそうさせるのか知ったことではないが、クレイトンは水中を縦横に跳ね回るイアン・マクレインを見、中空にある太陽を恨めしげに見上げた。
 ばしゃばしゃいう水音と無邪気な嬌声は止むことなく、首筋を伝う汗をより忌々しく感じさせる。生け垣の前でたち鋏を動かしながら、クレイトンは視線を移した。
 パラソルの下に長椅子を置き、サングラスに灰白のローヴを纏うジュールズ・ホエールが、つまらなそうに雑誌を眺めている。彼も目の前の傍若が気にかかるらしく、頻りとグラスを下へずらし、険しい目を向けていた。

 「イヤァーッホーイィ……ジューズ! 何気取ってやがんだぁ? この国に来て初めて金払わず使えるもんなんだぜ? もう日焼けマシンとはおさらばできるってのに何してやがんだ、おい?」

 悪意の欠片もなく掌で水面を掬った一投は、見事に冊子真ん中へ落下した。しばらく動けないジュールズは忍耐も限界とばかり立ち上がり、サングラスを外す。

 「そうして好きなだけ喚いてろよ。あとでどうなっても知らないぜ」
 「な〜に言ってやがんだかなぁ? オレが慣れない個人プールにハメ外しまくって溺れるとでも思ってんのか?」
 「バ〜カ。誰がお前のことなんか心配するかよ。ったく」

 ジュールズは再びサングラスを着け、持っていた雑誌を放った。とりあえず嘲弄されたことに気づいたイアンがなおも罵声紛いの抗議をしかけていたが、それ以上相手が応答することはなかった。

 「ヘ〜イ、クレーイ、休憩しろよぉ…」

 言ってプールへは二度と視線を向けることなく、ジュールズは邸内へ入って行く。
 クレイトンが通り過ぎようとした時、黙り込んでいたイアンが彼へ声をかけてきた。

 「こん中で泳ぐのがそんなマズイことなのかよ?」

 訳知り顔はしたくなかったが、この国に関しては多少相手より詳しいということを納得の上、クレイトンは指で頬を掻きながら応ずる。あくまで使用人として。

 「あ〜…そろそろ、出た方がいいぜ?」
 「何でだよ。オレが入ると汚れるとでも言いたいのか?」

 彼は首を竦めてみせた。

 「そうじゃない。まだ2時だろ」
 「だから何だよ」
 「日差しが強すぎる。あんたは知らないだろうが、火傷とおんなじことになるんだ。残りのシーズン中アノラック被って過ごしたくなかったら、最低7時まで待った方がいい」

 一つ頷き、クレイトンはイアンをやり過ごす。だが背後で忠告に従った気配は感じられない。その代わり。

 「ハッ! 知ったふうな口利くんじゃねぇや、庭師風情が。オレはオレが泳ぎたい時に泳ぐ。誰の指図も受けるかよっ!」

 背中へ向けられた不当な罵りを理解できず、クレイトンはつい振り向いてしまう。剥きだしの肩を真っ赤にした男の、突き出された両手中指。呆然としてから首を左右に振り、彼は涼しい邸内へ退散する。

 「放っとけよ、あのバカは一度痛い目見ないと懲りないんだ。ヤクでもやってハイになってんだろうが、相手してやることないぜ」

 いつの間にか横へ立つジュールズから手渡されるグラスを受け取り、クレイトンは否定も肯定もせずそれへ口をつけた。冷たい液体が食道を下っていき、熱を帯びた全身を瞬間的に冷やしてくれる。味など関係なく初めの杯は彼に嚥下され、その様子を見守るジュールズが何も言わずに2杯目を注ぎ入れる。

 「…あ……悪い…」

 小さく微笑んでジュールズはデカンターをテーブルへ置く。見ているだけで自分も飲んだような気になれる、そう言ってはクレイトンのグラスを満たすジュールズは、今も自分のグラスへは手もつけず、黙々とアイスティーを消費していく彼を見ていた。

 『そういえばハンナが言っていた。庭師を1人雇っていた、とね。君がそうなのか?』

 音楽室での対面後、うまい説明を思いつけなかったクレイトンを助けたのは、やはり彼だった。記憶を手繰りながらクレイトンへの不審を緩和させていく青年は、見られることには慣れている、というふうに実に堂々としていた。
 頷くだけで良かったクレイトンはまだ動揺を整理できなくて、警察を呼ばれることよりも、相手の不快を恐れていた。どうしてだろう? それはすぐ忘れていい疑問だったが、あまりに出所不明なため今でも気になってしょうがないのである。
 そして答えを見つけられないまま、彼は再びホエール邸の庭師を請け負うことになっていた。

 『イギリス人が庭いじり好きっていうのは認めるけど、こんなだだっぴろいのには応用きかない。トピアリーがないだけでこれだけ大きくなるともうお手上げだ。もちろん昇給させる。またここを庭らしい庭に戻してもらえる? どう?』

 断る理由がなかったクレイトンは、次の日にもホエール邸を勤務ローテーションに入れることにした。

 ジュールズ・ホエールは故ジェームズの甥で、このほど土地家屋を相続した。どこかで見たと思ったグレイブルーの瞳も、あながち外れていなかったのだ。
 クレイトンより3つばかり年少だが、雇用者だからというだけでなく、彼には女王を仰ぐ国民生粋の沈着と品位が身につけられていたため、気にするなと言われてもクレイトンは時々慣れない敬語を使いそうになった。職にはついていないようだが、ウォール街にオフィスを構え、彼も株主に名を連ねる金融会社からの配当金で、生活はことたりていた。専門用語で説明されたが、クレイトンには労働を免除され暮らしているということがどうしても理解できなかった。不如意な顔をする彼に、ジュールズは別段深追う真似もせず、すぐその話は切り上げられた。
 クレイトンの新たな雇主の大まかな概要はとりあえず承服できたが、同時説明を省かれたイアン・マクレインに関してはしばらく謎が続いた。とはいえジュールズ自身に関しても、最低限の情報しか与えられているわけでもなかったのだが。

 「…ヤツ…いや彼はその、あんたのダチ、ってことでいいのかな?」
 「イアン?」

 昼下がりのティータイムに、クレイトンは問いを問いで返され頷く。
 チラと向けられる横顔は、先刻まで屋外にいたのに、汗一つかいていなかった。そんなつもりはないと信じたいが、少し唇の端を上げ、試すように得意気に光る彼の瞳が、クレイトンは苦手だった。ランニングシャツ1枚という、ジュールズに比べ随分風通し良い格好をしているのに、首の後ろから汗が滴り落ちるのがわかる。

 「あいつはね…あれでなかなか馬鹿にできないのさ。概ねトレーダーなんてのはちょっとばかし知恵の回るチンピラみたいなもので、あいつもどこか山師的なカンだけは働く。どこか場末のクラブで似非ロックスターでも演じてそうだけど、資産100万ドルなんだぜ? 世の中間違ってるよな」

 くっくっと喉奥で笑うジュールズの答えは、情報量としては十分。だが決してクレイトンを納得させはしなかった。
 彼らは、ナイトクラブを貸し切ったり、ラスベガスでルーレットに興じるようなことはなかった。その代わり、即日キャッシュで買えないこともない深紅のフェラーリを借りてきて、ハイウェイを時速100マイルで飛ばした翌日、スヴェトラーノフが振るグルックのシンフォニーを聞くために、ボストンフィルの演奏会場へ足を運んだりする。
 ウッドストック以降流行りの野外ロックフェスティバルが近辺で開催されるのを聞くや、キャンピングカーとテントを調達、5日ほど経って帰ってきた彼らは寝不足と疲労で玄関口へ倒れこんだ。明くる日の午後起き出した2人は、アルンハイム美術館展を開催しているギャラリーへ出掛けていった。
 クレイトンは、芝刈りや剪定の他、車を借り受ける職務も担わされた。
 運転手として同行することもあった。外出のたび高額使用料を払って高級車をレンタルするなんて面倒はやめ、なぜレクサスでもフィアットでも好きな車を買ってしまわない?

 「答えは3つある。第一に僕は運転できない。第二にあんな便利なもの持ったら出掛けっぱなしになって家へ寄りつかなくなっちまう。第三に、これが一番重要なんだけど、あんな危険なもの僕は嫌いだ」

 何を言われたのか咀嚼が間に合わないクレイトン。

 「…危険? でもあんた昨日ももっと速く走れねぇのかって…」
 「まったく人間てのは際限知らずの動物だ。ちょっとハンドル操作間違えばすぐあの世行けるってのに。走る凶器、殺人マシーン。死と隣り合わせだと思うとまったくゾクゾクするね」
 「……その…つまり…?」

 クレイトンは鼻の頭を掻き、必死で理解に努めようとする。

 「ほんと、大っ嫌いだよ。あまりに楽し過ぎる」

 言ってジュールズは、幌を上げた後部座席で身を乗り出し、彼へ加速をせがむのだ。そうして家へ帰ってくるなり音楽室に引きこもって、取り寄せたばかりのクープランの楽譜を譜面台へ載せ、ハープシコードを奏でるのである。

 「なぜ僕らがこの国を毛嫌いするかわかるか?」

 壁に寄り掛かって音色を聞いていたクレイトンへ、ジュールズは問い掛ける。

 「嫉妬だ。太陽に愛されてるからな、ここの連中は。オツに澄ましたイギリス人はそれが当たり前と思ってるから雨や曇り空とさも仲が良いみたいに振る舞ってる。けど本当は年中陽の射すカリフォルニアが羨ましくてしょうがない。でもどうしようもないこともわかってる。だからそんなものはまるで眼中にない振りをして、今日の雨は馬鹿に詩的な降り方をする、なんて気取ってるのさ。笑えるだろ?」

 愛しているから、見ないようにする。愛するあまりに、嫌悪対象になる。

 「精神科医にかかりやがれ、って顔に書いてあるぜ?」

 咄嗟にクレイトンは顔面を触ってしまい、遅かったが凍り付いてしまう。笑い飛ばしてくれればいいものを、ジュールズはそれでも常と変わらぬ威厳を崩さず、彼から悉く発言権を奪った。
 憶えたての名の楽器を眺める視界は次第にぼやけ、腕組みして立つ地面が起伏に揺らめく錯覚を覚えながら、クレイトンは少し音階が外れているように思えた。

 「さすがにもう調弦しないと……だろ?」

 読んだのか? だがそんな動揺はすぐ打ち消し、問いかけに対してはわからないと肩を竦めて見せる。そんなこと思いつきもしなかった、とはいえジュールズの慧眼にはそれすらも滑稽な演技として見破られているのではないかと思える。
 何でオレはこんな無駄なことばかりしては、独りで焦ったり喜んだりしてるんだ?
 答えは見つからない。ただ彼は、自分が雇主にとって乗り換え可能な高級車だったり、与えられない恩恵なら無視するまでと軽く見られる太陽とは、同列に考えられたくなかった。矛盾の感化がどこかバランスを失っていると気づかせていても、クレイトンはそう望むようになった。

 熱射病を誘発する日差しがまだ助走段階にある朝まだき、クレイトンは例の運転手としてホエール邸へと足を運ぶ。指定時刻とはいえこの時間には珍しいことだ。
 今日の行き先は聞かされていないが、午後遅く駆り出され帰りが深夜近くになるよりはいい、と彼は単純に考えたものだ。
 ノッカーは一度叩いたら二度と叩くな、言われた通りにクレイトンは儀礼的に入室許可を待機したが、例外などあり得ないように返答はなかった。だから彼はほどなくドアを開け邸内へ入った。
 冷房なしの熱帯夜を明かした階下は、重苦しいぐらい熱気で隠っている。脇の下から吹き出る汗に不快は募り、カーテンを引いてクレイトンは出窓を開け放つ。相変わらず風などなかったが、多少は換気に役立つだろう。
 彼はシャツの胸元を掴んで扇ぎ、高速で汗腺を活性化しようとしているそこへ風を送ってやる。窓辺へ手をついて、外のプール表面が放つ水の乱反射に眉を潜め、火照りが冷めるのをしばらく待った。
 家内はひっそりとして、人の気配が感じられない。鷹揚なほどおっとりしているクレイトンでも、流石に5分、10分とこの擬似サウナ室で過ごすのは望まなかった。

 「…いるのか?」

 着替えにでも手間取ってるんだな。そう思って彼はテーブルの周りをうろついたり、階上への階段そばで手摺に寄り掛かったり、自分の存在を告げるため口笛も吹いてみる。

 「ヘーイ、ジュールズ? 遅れてないはずだぜぇ……」

 控えめな呼びかけにも、依然応答はない。
 フゥ……。湿りだした額を拭って一つ息を吐き出し、クレイトンは階段を登り始める。聞こえないだけならいいが、まだ寝られてたんじゃお話にもならないぜ。彼は素直にそう考え、プライベートルームを訪ねる不作法を自身へ許した。他の可能性など露も考えてはいなかった。
 閉ざされるドアを同じようにノックし、やはり応答がないのを待つでなく、クレイトンはノブを回す。隣室のベッドルームとはドアを隔てていないので、微かに流れこんだ冷房からの冷気で室内はちょうど心地よい体感を与えてくれる。

 「…モーニン?…ヘイ、もう起きる時間だ…」

 ゆっくりと寝室へ向かいながらも、彼は無意識に足音を忍ばせていた。存在をアピールしたい者にしては明らかに不適切な動作であるのを、クレイトンはおかしいとも思わない。ただ本能だけは、他人の、しかも雇い主の寝室を見るという行為が想起させる後ろめたさを知っている。
 薄暗くひんやりした室内奥のベッド上に、彼は横たわるジュールズを見つけた。あたふた着替えの途中でもなかったら一喝してやろう、という無邪気な発想は、瞬間どこかへいってしまった。
 辛うじて下半身へかけられたタオルが隠してくれるが、若い家主はディアナに愛され永遠の眠りについたエンディミオンと区別のつかないしなやかな裸体を晒し、なお浅い眠りを貪っている。心持ち頭を右側へ倒し、利き腕の甲が裏返って額上へ乗せられている。体内時計が目覚めを告げているか、あるいは夢で魔物に追われでもしているのか、頻りに瞼がひくついている。
 だが何よりもクレイトンの視線と思考を奪うのは、開かれる脇窩のすぐ上や喉元窪み、さらには朝日を吸って黄金に輝く体毛が密生する臍のそばへ無数に遺される、紅を散らしたような痕。
 室内がひんやりと感じさせるのは、そこで放散された情熱的なエネルギーがようやく終息したから? この場面はともすれば、それ以外言い様ない情事のあと、なのでは?
 途端に顔から喉から灼熱が流れこんでくるようだった。何だ、オレは、何をこれほど……。魅惑の媚態でプレイボーイ誌のカレンダーガールが薄物に身をやつしているわけでもないのに、クレイトンはそれを見たらおそらくこうなるだろう、という仮定状態に追いやられた。
 短く途切れる浅い呼吸はどうやら自分のものらしい。今になって、クレイトンはようやくジュールズ・ホエールが美しいということを認めなくてはならなかった。頭痛に似た疼きが顳かみを襲っていた。苦しいのは呼吸ばかりではなかった。

 「行けよ」

 声に向くと、そこにはバスルームに続くドア前へ立つ、腰回りを覆うタオル1枚だけのイアン・マクレインがいた。脱色した長いプラスティックブロンドは洗髪したてで、毛先に溜まった雫が肩を濡らしている。

 「行けったら。オレがヤツなら見られて嬉しいことじゃねぇ。てめえはオレ達が降りてくまで下で待ってりゃいいんだ」

 声を潜めてイアンは言う。普段の陽気はかき消え、彼にもそんな顔ができるのだ、と初めてクレイトンへ教えてくれる。反射神経が機能麻痺を起こし、何が最善かわからなくなった。

 「もたもたすんな、ほら。回れ右、前へ進め」

 2、3歩後ずさり、クレイトンは言われた通り階段を駆け下りる。
 オレは何も悪いことしちゃいない。ただ『見た』だけだ。それが何でまたとんでもねぇマヌケみたいに尻尾まいて逃げ出す羽目になってる?
 考えまいとしても、彼は鮮やかに目前へ浮かび上がる、2人の男が裸で絡み合うイメージをありありと見た。イアンよりも、またこの邸からよりも、クレイトンはその想像から逃れたかった。

*  *  *  *  *  *  *  *

 小半時経ち、2人が階上から降りてきた。

 「おはよう、クレイ。いい朝だ。僕ら遅れてないよな?」

 ペパーミントグリーンのスポーツジャケットにベージュのスラックス、裸足にエスパドリーユを履いたジュールズが、声をかける。
 まともに顔を見れず、クレイトンは曖昧に頷いた。悪びれなくて当然の彼へ、大気に溶けた動揺の伝わる様が見えるような気がした。

 「朝食はどこか開いてるダイナーでとるとしよう。悪い癖っていうかイカモノ喰いでね、ラードぎとぎとに屑肉ってチーズバーガーが時々無償に喰いたくなる。あと泥水と区別付かないコーヒーに機械油で揚げたフレンチフライとか。アハハハ、怒るなよ、クレイ」

 まったく屈託のないジュールズだが、クレイトンはボタンの外れた彼のポロシャツ襟元からのぞく鬱血痕へ目をやってしまった。すぐ逸らしたのを気づかれなかったろうか?

 「どうした? どっか具合でも?」

 急いで首を振り、どうやら彼は何も気づいていないとホッと胸を撫で下ろす。が、背後に佇むイアンの顔色は逆に雄弁すぎるぐらいだ。見たぜ。恐ろしく鋭い視線が、クレイトンを見つめている。

 「どうした、イアン? ハハ〜ン、さては男前のクレイに惚れたか?」
 「ジュールズっ!」
 「冗談だよ、クレイ。ま、少しも笑えないけど…アハハハ…」

 大きく深呼吸をし、クレイトンは首を振る。2人を外へ促し、運転席へ乗り込んだ。バックミラーに映るイアンの目は、まだ警戒を解く気はないようだ。
 クレイトンはもう一度小さく溜息をつき、キーをまわした。
 待っていられないとばかり、ジュールズが立ち上がって幌をたたむ。
 今日も暑くなる。その証拠に、太陽光線はまるで容赦なく彼らを曝露する。
 長い1日になりそうだった。

 「…アっ…つぅ………」

 エンジンを止めた芝刈り機のモーターへ、うっかり手をやってしまった。赤くなった指をクレイトンは反射的口に銜える。
 ホーレイス家の比較的狭い庭を整えるのは、彼にしては楽な仕事に入る。だからついぼんやりと考えこんでしまうことも可能だ。
 昨日は結局ビーチと森林公園に訣れた2人の相反する要望で、ハイウェイ路肩に停車しまもなく始まった罵り合いに暮れてしまった。
 敬虔なクリスチャンでもないクレイトンでさえ、耳を塞ぎたくなる酷い罵詈雑言の応酬に、行き過ぎる車輌も一旦彼らの前で減速する始末だった。
 完全に自分を無視し展開される、歴史があるだけに年期のいった高尚なスラングが飛び出る場面の背景に徹し、クレイトンは次第にばかばかしくさえなってきた。
 彼らが道徳的といえない関係と思ったのは、単なる思い過ごしかもしれない。少なくともオレは自分の恋人に向かって、てめぇの母親と寝てるとか、メンドリとヤるのがお気に入りだとかは言わない、と思う。……男の恋人がいたことはないが……。

 「クレーイ…クレイトーン?」

 ミセス・リリアン・ホーレイスが腰を屈めながらテラスで彼を呼んだ。クレイトンはハッとして顔を上げ、呼ばれた方向へ駆けていく。今日は賃金支給日なのだ。

 「…にぃ、さぁ〜ん……確かに30ドル。サンキュー、リリー」

 笑顔の彼に対し、老女は腹痛でも堪えるような苦渋を顔面に漂わせている。

 「リリー? どうかした?」
 「あんたはもう長いし、うちの庭も知り尽くしてるし、何より腕がいいんだからあたしゃイヤだってあのひとに言ったんだよ。ねぇクレイ、絶対あたし恨まないどくれよね」
 「何言ってんのかわかんねぇな」

 ミセス・ホーレイスはさらに石でも飲み込むような唸りを発し、目にも鮮やかな原色のムームーを纏う腰へ両手を当てる。だが曲がった腰は伸びることもなかった。

 「ほんと悪いんだけどね、今日でもう来なくていいってことになったのよ」
 「あぁっ?! クビってことか、そりゃ?」

 萎れた瞼に押しつぶされそうになっている小さな瞳が、申し訳なさそうに曇り、老女は一つ頷いて籐椅子へ座り込む。

 「もう代わり決まってんのかい?」
 「それがうちのひとったら決めてもないんだよ、バカだねぇ…そうそう簡単に代わりが見つかるようなら苦労ないってのを知らないから言えるんだ。いくらあんたの給料分申告してないって言われたからって…」
 「えっ? そんじゃ旦那さんが決めたわけでもねぇのかな?」

 老女は瞬間顔色を変え、何か口の中でもぐもぐ言っていた。だがすぐ笑おうと努める苦し紛れの笑顔を向け、ひたすらソーリーを繰り返す。終いにはクレイトンの知る権利を放棄させ、最後だからと10ドル紙幣を握らせて家の中へ引っ込んでしまった。
 残されたクレイトンは訳がわからず、しばらく家を見つめて頭を掻いていたが、結局諦めトラックへ乗り込んだ。時々隣家の猫が刈りたての芝生へ糞をしているのを見つけたりもしたが、手入れしやすい小さな庭を彼は好いていた。もう来れないとようやく納得する頃、クレイトンは灼ける熱気も厭わず、見納めるように車からそこを眺め見た。
 気分のいいものではない。彼はアーティストと呼ばれるほど熟達してもいないし、その分野の錬金術的創造物を残したわけでもなかったが、手掛けた庭はクレイトンにとって飼い犬や飼い猫、いややはり子供みたいなものだったから。
 警戒など無用なのに、トラックが行ってしまうのを待つホーレイス夫妻が、窓辺へ佇み小声で話している。

 「こういうイヤな役目はいつだってあたしに押しつけるんだから。主人のあんたが言うのが道理ってもんじゃないの」
 「仕方ないだろう。ウィルコックスさんにどうしてもって頭下げられちゃ…」
 「知ってるんだよ、あたしは。あのひとがホエール邸に住みついたチンピラ2人に使われてるってことは。一体いくら貰ったのさ?」
 「リリー、いい加減にしないか。お前新しい皿洗い器欲しがってただろう?」

 ミセス・ホーレイスは、長年の連れ合いに対し初めてとも言える冷淡を示す。

 「誰がそんなものいるもんかいね。若い子路頭に迷わせてまで楽したかないよ」

 車を走らせながら、クレイトンは燃料メーターがまもなく最終目盛りを切るまでになっているのに気づく。しまった! 持ち金を半リットル分に当てるとほとんどなくなってしまう。ったく、こんなにふんだりけったりって言い方がはまる日もあったもんじゃねぇや。今日は予定日ではないけれど、彼は車をUターンさせ、一路ホエール邸を目指す。クレイトンにしては珍しく、自棄気味になっている。
 閑静な環境には不似合いな、ぎしぎし言うトラックのドアがやかましい音をたて閉まり、彼は重い足取りで玄関へ向かう。石段を上りかけた時、ジタン片手にいかり肩でイアンが出てきた。クレイトンに気づいてさらに機嫌を損ねたらしく、無言で煙を吐き、行き過ぎた。見送りながら、彼は今中にいるのはジュールズだけ、という確信を持ち、軒をくぐる。
 リビングのソファ上で足が組まれ、その爪先を落ち着きなく揺らしている。完璧な稜線の眉を歪め、親指を噛みしめるジュールズがいた。能天気な挨拶を許さない大気だが、クレイトンはそういえばそんな礼儀を弁えたことはなかった。初見でさえ。
 しばらく降りる沈黙のあと、視界末端で気配を捉えたか、爪先の動きも止んだ。咄嗟に作ったらしいジュールズの笑顔が向けられる。この陰から陽の変容は、訳もなくクレイトンを戦慄させた。どちらも同じジュールズ、だが彼の認識能力は相手規格とは大幅に速度を異にする。目の前に立たれても、まだクレイトンは話せるまでになっていなかった。

 「…今…イアンが……」

 肩越しに親指を立てようやくそれだけ言い、彼は首をしゃくる。ジュールズは薄く笑い、珍しく人前で美しい飾り箱から葉巻を出し火を点けた。初めて見るが、もちろん彼は咳込むような見苦しい真似はしなかった。箱を勧められたが、クレイトンは一拍置いて断った。

 「誰でもいいから殺してやる、とでも言った?」

 大して美味くもなさそうに煙を吐き出し問うジュールズ。また間の悪い口論のあと、クレイトンは来たのだ。

 「…オレ、また出直してくるよ」
 「ノーノー! 気にすることない。ちょうど良かったよ、話をしよう。何でもいいから何か楽しいことを……」

 それぐらいこの若き雇主は気が滅入ってる、ぐらいのことがわからないクレイトンでもない。弱ったな。実は給料の前借りに来た、などと言い出せる雰囲気ではない。まして文化的にも世俗的にも教養高いこの年下の男を満足させられる、一体どんなトピックをオレが知ってるっていうんだ? 彼は静かに途方に暮れ始めた。

 「何か変わったことは?」

 ソファに座り直し、ジュールズは彼を見上げる。

 「あ……あ、その…ホーレイスんとこ、クビんなっちまった……」

 バカ、何言ってんだ、オレ! 笑いはまず自分を貶めてから、とのコメディアンの伝統があることは確かだが、現実の些細な悲劇を笑い飛ばす場合でもないだろう。

 「Ohhhh……気の毒にクレーイ。僕にできることは?」

 相手は持っていた葉巻をもみ消し、神妙に声を落とした。今更だが史上最大のばつの悪さを感じるクレイトンは無理矢理笑おうとしたが適わず、身体の前で両手を滑稽に振るだけだった。念押すように上目で見つめるジュールズをようやく宥め、彼は密かに自省する。バカだバカだと思ってたけど、まさかここまでとはオレも我ながら知らなかったぞ……。

 「そう……ジミーがいい…叔父の話をしよう。といっても僕は直接会ったことがないから任せる。引退した映画監督は普通のジイさんとどう違ってた? あの年で自殺するほど何をそんなに苦しんでいたと思う? みずから選んだ最期に彼は幸せを感じたんだろうか? 自己の解放を果たせた? ねぇ…どう思う?」

 矢継ぎ早の質問責めは、所詮クレイトンに手綱を牽かせる気などないからだ。勿論答えなど期待してはいない。それはどこかさし迫った危機に背を向け、棚上げしたくてしょうがない者が逃避したがる甘さも含んでいた。

 「…ゴメン……君に聞くことじゃなかった。…でも一つだけ教えてくれ」

 さまざまな想いが駆け巡り、対処しきれなくなったクレイトンを受け、ジュールズは自嘲してからそう言った。せめて頷くぐらいしないと、クレイトンはそう思って極めて真摯に相手を見据える。

 「クレイは、あの老人をどう思った?」

 できるだけ客観的に。意図の有無は定かでないが、ジュールズは血縁としての呼称を使わずクレイトンへ問う。それは旨いこと功を奏し、彼から雑念と偽装本能を奪って、神経を研ぎ澄ませてくれた。
 懐かしいジェームズ。
 決して父親だけが正しいわけではないと初めて言ってくれたジェームズ。孤独な生活で忘れていた慈しみを、無償で与えてくれたジェームズ。泣き出しても不思議はなかった。だがクレイトンは堪えた。

 「彼はいい人だった……好きだったよ…」

 それは傷ましいけれども真実だ。例えその愛し方が幾分異なりはしても。
 クレイトンの黙考を静かに見守っていたジュールズは、それを聞いて安心したように微笑んだ。火を点ける前の新しい葉巻を見下ろし、その後ケースへと戻す。
 背もたれに頬杖をつくジュールズの向いた窓の外では、ちょうど太陽を積乱雲が覆ったあとか、1日王様気取りの影が降りている。

 「せめて訳聞かせてくれ。マズイ仕事した覚えはねぇが、いきなり来なくていいって言われ、はいそうですかって簡単には引き下がれねぇよ」
 「うるさいわね。自分の胸に手当てて考えたらどう? あんたこそ何やったの? 頼むから妙なヤツと関わり合いにしないで。あたしに警察呼ばせないでちょうだいよね」

 鼻先で閉ざされるドア。今週に入って3軒目だ。
 どういうことだ? オレのボイコットが巷の流行りってわけか? あとは自分に瓜二つの人間が、彼のクライアントの目前で甚だしく不躾けな振る舞いに及んだとしか考えられない。
 それでなくとも中古車バイヤー=ディグジー・ドルーが、長い間利子払いだけで許してくれていたのに、一昨日突然全額返済しろと言い出した。もし払えなければ、トラックを接収するだけ、だそうだ。
 いくらボロでも、なければ仕事にならない。今、5つ目の得意先を失ったクレイトンには、死ねと言われるに等しかった。
 明日には取りあげられるかもしれない車を駆って、彼はホエール邸へ向かう。交通量が少なくて幸いだった。到着できたことに苦笑する。考える真似は真似にすぎず、目の眩む良策を思いつくはずもなかった。
 一通りの作業を終え、時計で3時10分前を確認し、クレイトンは邸内へ入っていく。
 案の定、アノラックを手放せなくなったイアンが、室内でサングラスをしたまま不機嫌隠さぬ口調で応ずる。だがどこかいつもの生彩がない。
 不審に思ったが、クレイトンは変わらぬジュールズの歓迎に安堵した。
 昨夜の夢に現れた彼を、どういうわけかクレイトンは長らく追いかけていた。あと一歩で掴まえられる、度に身を躱すジュールズは、フォーンをじらすニンフさながらだった。
 だが、やっと手に落ちた彼の細腕を囚えた時、クレイトンは単純にそれを喜んで、得意に大笑した。生来の勝ち気で目に焔を浮かべ悔しがると思ったジュールズは、しかし少女の怯えを見せ、頼りなく肩を震わせた。

 クレイトンはついその肩を抱き寄せてしまう。そして改めて顔を見合わせると、揺らめくブルーの瞳に、ある確かな啓示を得た……そこで夢は途切れる。
 イヤな汗をかいていた。

 「……なんだって、クレイ?」

 ジュールズの顔がすぐそばにあった。驚愕が過ぎて呼吸と反射全てが止まる。

 「…な、何を?」
 「またお払い箱だって?」

 オレはまた一体何を考えているんだか。いろんな問題が山積しているというのに……。
 クレイトンは、その昔医者に言われた通り動揺時の改善手段である深呼吸を、相手にわからないようすばやくやる。ジュールズの問いが時間差で頭にしみわたる。

 「何で知ってる?」
 「今自分でそう言ったろ。それより本当に大丈夫なのか? 何でも言ってくれていいんだぜ?」

 オレは彼の単なる使用人のはずだ。だがジュールズは友だちだって言わないようなことを言う。これを受け入れるのはかなり魅力的だし、今の自分が誘惑に負けるのは造作もないことだ。
 だがクレイトンは、あくまで引くべき一線があることを学んでいた。自分の無意識が見る幻想までは掌握できなくとも、現実では守るべき身分を理解しているつもりだったから。
 丁重な言葉にはならなかったが、彼は最後に残った雇主の好意に相応の感謝を示し、しかし援助には及ばないことを明確に伝える。ジュールズは遠慮などいらないと、嘆願すらするように続けた。

 「本当にいい。やっていけないこともないんだ。デッドラインが来たら朝の3時でもここのドア叩かせてもらうがな。サンキュ、ジュールズ…」

と晴れやかに笑える自分がクレイトンには意外だった。以前ならきっと悲嘆に暮れたはずだ。奇妙なことだが、もはや友人と呼んでも良いジュールズの下で働いてさえいれば、物事はこれ以上悪くならないだろう、とあまりに短絡過ぎるがその考えに彼は納得できた。
 だが彼の注意はあくまで自分にしか向かなかった。それが悪いかどうかはわからない。
 ジュールズは落胆している。好意を斥けられた不快では無論ない。そう感じる善良な人間は、きっと罵倒を手段に変え、相手の不義理に不満をぶちまけるはずだ。
 それができたなら、事態はまだ逼迫を回避できた。彼の静かな失望は、次第に苛立ちへ変換していく。焦慮という行儀悪さを最も嫌う国民であるがゆえ、面へ著れない激情は、沸点を目指すよりも瞬間冷却された。
 本当に掴みたかったものの代わりに、ジュールズの掌は空を握りしめ、血が結集して震えるのを他方が庇っている。

 「そうそう、今夜ここでパーティ開くって僕言ったかい?」
 「何か手伝いいるんなら着替えに戻ってまた来ようか?」

 当然のように裏方要請と解するクレイトン。
 ジュールズは冷笑を隠すのがやっとだった。

 「違うんだ。君も招待したいって僕は言ってる。何か予定が?」

 返答が届くまで大分間があった。クレイトンは目を見開き相手を見下ろす。

 「予定って、オレが今夜空いてるかどうか、ってことか?」
 「他に誰に言ってるっていうんだ。それとも正式なインビテーションなくちゃだめか?」
 「あ…いや……ゴホっ…そのパーティなんて……んなまともな服あったか…って……」

 心得顔の相手は彼に最後まで言わせず、首を左右に振りながら舌を打つ。実は嬉しさを紛らせているだけだ。

 「女王の娘なんて呼んでないから安心しろよ。汚れてなけりゃなんだっていい。僕だってこのまま着替えるつもりなんかない」

 ラフな半袖シャツにジーンズを示し、ジュールズは悪戯っぽく笑う。つられてクレイトンも微笑んでいた。ここまで質の違う笑いも珍しい、彼らの守護霊や神の弟子がもし傍らにでも鎮座したなら、そう思ったことだろう。

 「それじゃ今夜8時に」

 降って湧いた招待をただ喜んでいるクレイトンは、すでにここへ来るまでの煩事を忘れ、数時間後のイベントを楽しみに思っている。
 執行猶予は取り消すことにするよ。窓に佇んでトラックが去っていくのを眺め、暮れていく西日に目を細めながら、ジュールズはそう胸の中で呟いていた。

 21時を過ぎたホエール邸はすでに大盛況だった。
 時代を逆行する享楽的なデキシージャズが流れる中、昼はどこに潜んでいたのかと思わずにはいられない大勢の人々が、彼らの好きなように踊ったり酔いつぶれたりしている。いたる所に置かれた酒類は、きっと1軒のリキュール店を店じまいさせたに違いなかった。
 クレイトンは真新しいシャツにまだ折れ目の見える薄いブラウンのボトム姿で、ビール瓶片手にうろついていた。ついさっき来たばかりの彼は、まだ主催者に会えずにいる。
 普段自分が管理している庭は知り尽くしていたが、ここまで人が入れるほど広いとは思わなかった。邸内も慣れていたが、相応の人数で埋まる内部を見ると、その大きさが改めて推し量られる。いまだにトレーラーで寝起きしている自分が途端におかしくなってきた。

 「クレーイ! そこにいたのか?」

 確かにジュールズは昼間の格好と同じだった。だがこちらへ向かってくる彼に、周囲で振り返らない者は1人もいなかった。クレイトンは自分が見られているわけでもないのに、思わず硬直してしまう。脇目もふらず、ジュールズが人垣をぬってやってくる。

 「賑やかだな」
 「あぁ、まったくうんざりしてるよ。何回トイレの場所聞かれたと思う? 張り紙しとくんだった。飲み物足りてるか?」

 頷きながらボトルへ口をつけ、それを掲げて見せる。相手は満足そうに笑ってくれた。
 その後彼は溜息をつき、空のグラスや倒れた瓶で溢れる近くの簡易テーブルへ腰掛けた。クレイトンからボトルを奪い、身体を多少斜めにして無造作に飲み干してしまう。雛が殻を突き破りでもするように蠢く白い喉に、クレイトンは目を奪われた。

 「訴えても無駄だぜ。支払い小切手みんな僕名義なんだから」

 足の長いテーブルへ座ると、ちょうどクレイトンと変わらぬ目線になるジュールズは、掲げた空瓶を目の前で振って見せ、得意気に笑った。いつもながら面白いことを言う、クレイトンは大分彼の流儀に慣れてきている。
 2人は中身の残っているボトル捜索のために連れだって移動した。その二対はどちらも甲乙つけがたいほど他視を集めていたのだが、クレイトンは全てがジュールズの効力と信じて疑わなかった。気恥ずかしさも、次第に誇らしさへ変わってきていたから。

 「すごいな、これみんな友だちなのか?」
 「ハハハ、なわけないだろ。半分以上はここが誰のうちかも知らなくて来てる。蜜に集まる蟻といっしょだ。ギャツビーは随分気の利いたことしたって思ったけど、実際やってみるとどうってことない。ヤツはどうだか知らないが、お気に入りの木彫机に吸いさしを潰されやしないかってびくびくしたり、流し忘れたトイレに入る危険性を覚悟の上で用を足さなくちゃならない。ほんとバカげてるよ」

 もしかして、これはジュールズの愚痴なんだろうか? クレイトンは聞きながら、頬を紅潮させて文句を言うジュールズが、初めて年相応の青年に映った。それをひどく楽しみながら。
 それからしばらくジュールズの神経に障ったさまざまな不平を聞かされたが、クレイトンは軽く相槌を打つだけにしていた。いつもの有無を言わさぬ彼独特の高圧とは別の理由から、無言を選ばせていた。他には聞かせたくないからお前にだけ話している、クレイトンにはジュールズのそんな熱意が密かに嬉しかったのだ。
 すると、背後から来たと思しい者が会話を遮らせた。発達した胸筋も露に、ジョグショーツだけの男が、ジュールズに向かっている。暗いブロンドでハンサムと言えないこともないが、いかんせん身に沁みついた浅薄は偽れそうもなかった。
 クレイトンの逆側へ立つ男と、ジュールズは二、三言葉を交わす。クレイトンへ聞こえないぐらいの囁き声だ。男は上体を屈め彼を覗きこむと、やおら眉を潜めた。そして忍びがたいとでも言いた気な視線をジュールズへ残し、前を通り過ぎて去った。

 「いいのか、ともだち?」
 「ちょっと知ってる程度さ。親しくなんかない」

 素気ない返事には明らかな不快も含まれている。気分を害したことを隠さないジュールズの真顔は見ないようにして、クレイトンはボトルを傾けた。

 「ふーん……イイ男だな」

 派手なスプラッシュ音をたて瓶を口から外すクレイトンは、すかさず寄ったジュールズの目元に失言をさとる。こいつはまた何を言い出すことやら、声はなかったが彼の表情はより明白にそう語っていた。

 「あれが? クレイはあーゆーのが好みなのか?」

 思わず前方へビールを噴き出してしまう。

 「何言ってるんだ、お前?」
 「ご披露するためがんばりました、っていかにも即席で鍛えまくった内実なしの造り物だぜ? 第一あの頭の中は猿と同じぐらいの脳味噌もつまっちゃいない」

 どうやらいつもの毒舌が始まったらしい。

 「自然にそうなったってのが僕は好きだ。運動とか仕事でね。ダヴィデ像知ってるだろ? あのモデルは間違いなく競技選手だ。でもあれはあくまで造り物。あんなのがいたら僕はきっと……」

 魅入られたようになって、クレイトンはその間動けずにいた。だが、伸ばされたジュールズの手が彼の胸元を掠めた時、反射神経は身を引かせた。指先が感覚を捉える間もなく、ジュールズはその手を戻す。無言よりも、傷ついたようなジュールズの目の方が、クレイトンをおののかせる。

 「ジュー……」

 座っていた場所を降り立って、ジュールズは彼から離れていく。拒んだのはオレ、だが今度はあいつがオレを置いていく。クレイトンは咄嗟に彼を追う。

 「ジュールズ、待……」
 「ホエールさん、ちょっと…」

 ジョスカン・ウィルコックス? 控えめだが掴んだ腕を離すつもりはないとの気概も漂わす、あまりタチが良くないと専ら評判のこの中年ゴロつきが、なぜジュールズと知り合いなんだ?

 「お前、確かブーンだったな。…もしかして絡まれてんですかい?」
 「何でもないからあっちへ行ってくれないか」
 「そんならいいんですが、こんな早くあんたがこいつのクビ切らせてたってバレたのぁ、あたしには関係ないですぜ? 頼みますからひでぇことにだけは……」
 「うるさい! いいから向こう行けっ!」

 その怒声に這々の体で去っていく男を見送り、クレイトンは俄然募り来る疑惑を構築し始める。
 オレから仕事とってったのが、このジュールズだと?

 「…今あの野郎が言ったことは本当か?」
 「はは、そんなわけないだろ。誰だよ、あの酔っぱらい」

 だが彼は決して目を合わせようとはしない。それ以上の肯定があるか?

 「ジュールズ! 一体どういうつもりで…」
 「黙れったら! 何でもかんでも僕に聞くなっ! 少しは自分で考えたらどうなんだ?!」

 そんな怒りを向けたジュールズを、クレイトンは見たことがない。さほど強力でもなかったが渾身の両腕に胸板を押され、彼はつい尻餅をついた。どちらかというと、叱責がクレイトンを倒したようなものだった。
 一瞬怯えを見せるが、ジュールズは彼へ背中を向ける。いつまでもそこに蹲っていないクレイトンへ、なおも彼を追えという指令を誰かが与えていた。それこそクレイトンの本能でもあった。
 早足と人混みで随分掴まえるのに手間取ったが、クレイトンは何とかジュールズへ追いついた。音楽の届かない後方敷地。別種のざわめきと湿った熱気が辺りを包んでいる。
 彼の背中へひたすら目の照準を合わせていたクレイトンは、その頃やっと周囲の異様な雰囲気に気づいた。あちこちから聞こえる濡れたような吐息、何かの振動で幹を擦り合わせる雑木。立ち止まるジュールズの視線先、イアンが組み敷いた女の上で激しく腰を動かしている。

 「……あの売女…」

 彼はイアンを指してそう言ったのだが、愚かなクレイトンは正直に、見たこともない女性を侮蔑するジュールズに眉を寄せた。忌々し気に地面へ唾を吐き、見るもおぞましいと首を竦めながら、彼はきびすを返す。クレイトンが従うことを予測した上で。
 母屋へ向かうジュールズを追いながら、クレイトンは背後をもう一度見渡した。秩序と道徳を真っ向から嘲笑う、瞬間発光的快楽に溺れる男女の群れ。羨ましい、以前の彼ならそう思う。だが今は、自由の枷をはめられた、どこか空しい処理行為にしか映らないのはなぜだろう。
 彼はすぐ顔を背けた。邸内でも似たような情景が繰り広げられ、クレイトンは進路を阻む汗ばんだ肌をかき分けて、階上のプライベートルームへ辿り着く。入室を禁じるプレートがノブに掛けられてある。伸ばしかけた手を元へ戻し、握りしめるクレイトン。やっちゃいけませんよ、幼い頃から母に戒められたことは敢行できない性質を今更悔やみ、彼は自分へ言い聞かせた。お前はいつまで『坊や』でいたい? いつまで知らない自分を誇っていられる? クレイトンはゆっくりノブを回す。オレは今直ぐ知りたいんだ。何もかも。
 流石にここまでは外の狂騒も入り込めないらしい。最低限の照明しか点いていない室内は薄暗く、ベッド上で紫煙をくゆらせるジュールズの輪郭をぼかしている。

 「グラスだけど、いる?」

 まるで悪びれなく言う彼に呆れないようにして、クレイトンは首を振った。この男に憎まれる何をオレはやったんだろう?

 「……ジミーに会ってないなんて、嘘なんだな?」

 仰向けで煙を噴き出していたジュールズは高笑いし、後半は噎せかえって咳込んだ。品のない雑言を誰にでなく吐きながら、あくまで彼は古欧の王子然としている。

 「お願いだから僕にわかる英語で話してくれないか?」
 「…頼む。脳なしのオレにはあんたのやったことが何でかってのが検討もつかない。ジミーを悪く言いたかないが、確かにオレはあのひとを拒んだし……」
 「おいおい、そういうことは告解室ででも言ってくれよ。叔父とは間違いなく会ったこともないし、クィアだってことは昔から知ってたからクレイに言い寄ったぐらいのことは想像つくさ。可哀想なジミー。目の前に動くダヴィデがいるのに触ることもできない。彼が何で自殺したか教えてやろうか? あれほど老いてからでないと君に遭わせてもらえなかった運命っていうシステムに嫌気がさしたのさ。まぁ直接落ち度はないだろうが、間接的になら君って存在が第一因子とも言えるかもしれないぜ?」

 上体を起こし、朱も綾な柿右衛門の小皿へ吸い止しを無造作に置いて、ジュールズは立ち上がる。明らかにクレイトンの知らない男へ、今雇い主は変貌しかけている。
 渦巻く思考を積み木細工の要領で構築しようとしているクレイトンだが、悲しいかな機転はもちろん言語能力も伴わなかった。笑いながら極刑に甘んじたボルジア家美貌の当主チェーザレの残忍を、彼が知らないのは実に残念なことだ。
 ただ目前に立つ専制君主は、決して市井を脅かすほど放縦ではない。善良な社会構成維持に日々邁進する健全性など、彼にとっては食後に紅茶かコーヒーどちらにするかと必ず聞いてくるこの国の愚鈍なウェイターたちぐらい無意味なことだった。ジュールズは、富も地位もおそらく名誉すら手にしている、最も質の悪いコスモポリタンであり、ドロップアウトとは無縁のアウトサイダーだから。
 見知らぬ青年は、傍若に隣室へ消えた。予想もしなかった結果になることがもしわかっていたなら、芽生え始めた知的欲求などかなぐり捨てて、クレイトンはすぐさま退室すべきだった。間もなく戻ってきたジュールズは掌を天井へ向け、その上に薄布を乗せている。これだけでクレイトンに推量しろと求めるのは法外というものだ。
 ジュールズは彼に対峙すると艶然と微笑んだ。少し首を傾げ、ベッドへ座るよう促してやる。天敵に睨まれた獣ですら、もう少し抵抗するだろうに。クレイトンは好奇心というより幼児の素直さで、相手の眼を窺いながら従った。
 ここで牽引役を勤めるジュールズは、そんなクレイトンに一瞬憐れみにも似た同情を浮かべる。これほど無垢なのに……。心の中でそう呟きながら、自身が行おうとする非道をますます止めずにいられなくなる。それも詮無いことだ。自覚などなくとも、ひとは愛する玩具を幼い頃必ず解体せずにはおかなかった。冷気に目覚めた朝、窓辺へ広がる雪景に眩んだ少年は、美しい自然のキャンパスへ泥にまみれた自身の足跡を残さずにはいられないものだから。
 何が待っているのだろう? クレイトンはぼんやり考えている。ジュールズの表情は、痛みはないと偽りの笑顔を浮かべ、手際よく注射していく看護婦とどこか似ている。それならまだ良かった。予防接種は一時の痛みさえ堪えればいい。
 湖水のナーシサスも彼は知らないけれど、ブルーの瞳に映っている自分を見ていると不思議と安心できた。だからジュールズの持っていた布が鼻先へ当てられる一瞬に目にしたのかどうか、それは定かではない。
 クレイトンは、水掻きを持ったセイレーンに深淵へ引きずり込まれる幻影を見たように思う。気を失ってからあとは、暗闇が彼を待ち受けていたに過ぎないのだが。

 目覚めた彼は、独りベッドへ横たわっていた。サイケデリックに歪む視界は、みずから服用した薬物作用でないだけに、クレイトンには不快でしかなかった。
 吐き気もする。四肢の末端が痺れたように感覚がない。頭を起こすが気力はなく、すぐ枕へ落としてしまう。

 彼はしばらく回復を待った。ジュールズがいる気配はなかった。
 天井の闇がアメーバ状に見えなくなる頃、クレイトンはやっと立ち上がる。が、今度は床の市松模様に酩酊しかけ、急いで部屋を出た。
 パーティはどこに? すっかり音楽と酔客は消え、乱雑な遺留品がそこかしこに散らばる無惨な跡を残し、ホエール邸は深夜の沈黙にあった。
 階段を踏み外さないよう気をつけるのが精一杯のクレイトンは、この始末を誰がつけるんだろう、と無邪気に考える。テーブルに並んだボトルやグラスに残されるアルコールの色だけが妙に鮮やかに見え、喉の渇きを誘う。空のグラスに飲み止しや注ぎ残しを集め、気の抜けた不味さに顔を顰めては胃へ流し込んでやる。彼にとって久しぶりのパーティは正味30分もなかった。少し残念なのかもしれない。
 グラスを持ってクレイトンはふらつく足を庇い、視線を何気なく窓の外へと向けた。可憐な破砕音が吹き抜け天井へこだまする。グラスは粉々に砕け、残っていたヴォルドーワインは血清袋でも落としたような毒々しい赤を床へまき散らした。
 意識的に耳を澄ますと、見える光景の動きに合わせ、微かだが連動する声が聞こえた。プールサイドに置かれたテーブル上、仰向けに横たわる全裸のイアンを、バスローヴの前をはだけさせたジュールズが犯していた。
 クレイトンはどうやって足が動いたかわからないが、千鳥足で外へ出た。石段を踏み外しかけたが、視線が足元へ向かうことはなかった。彼の目は、ただ一心にその行為が現実かどうか確認したくて、2人へ注がれていた。
 甲高いテノール、というよりカウンターテナー紛いのイアンの嬌声は、身も世もなくその口をついて出る。姦しい母音の羅列の他に、持続と強度をさらに乞う恥知らずな要請が挿入される。
 ジュールズの吐き出す野太い呼吸は、随分彼には不似合いに思える。だが滑稽に開帳しているイアンの足首を掴み、大股開き中央で獰猛な獣を演じている彼は、千両役者の趣もあった。何度演じさせてもここぞという決め台詞が流暢に出ないハムレット俳優より、まだ慣れた安定感がある。
 見間違いではないという確信の持てる位置へ立つクレイトン。妙な音の出所を訝んで停止しかける思考を叱咤した彼は、それが局部を出入りする濡れた摩擦音であることに気づいた。途端に呼吸が乱れてくるのがわかった。
 よろめいたクレイトンは、足元に転がっていた酒瓶に躓き地面へ倒れる。物音に気づいたジュールズが彼へ向く。肩で息をつきながら、なお鋭さを消さない硬質の美貌を歪めもせず、ジュールズは身を引いた。不本意な停滞を下位者に抗議させる暇を与えず、彼は躊躇なくテーブルごとイアンをプールへ突き落とす。
 派手な水しぶきが上がる。天空では厭に美しい新月が見下ろしている。

 「遅かったな。尤も常人よかちっとばかし多めにしといたんだ。標準は6フィート以下だからな」

 頬を流れる汗も拭わず、青年はシャワー後でもあるように優雅な動作でローヴの前を合わせ、クレイトンへ近づいて来た。背後で水底から浮上したイアンの罵声などお構いなしといったところだ。

 「…お前ら……やっぱりそういう…」
 「ったくイライラさせられたよ。すぐにも泣きついてくるかと思えば存外骨あるんだもんな」

 下卑た口調が本来のものなのか、瞳は虹彩ばかりが輝いて疑いようのない狂気の光を宿している。身体の自由が平常以下だから、いやそればかりではなく、クレイトンは近づくジュールズを心底怖いと思う。この瞬間まで本来の自己を欺き通せた彼に、ただ怯えるしかなかった。

 「…な…何でオレ追い詰めるような真似…」
 「だからお前好きだぜ、クレイ。その信じられないぐらいの鈍感さ。他の野郎だったらまず極刑でも足らねぇが、お前だけは許してやらぁ。決まってんだろ? オレは飼い慣らされたペットなんざいらねぇんだ。だから生け捕りにしようって思ったまで。お前を好きにしたくってしょうがなくなったんでな」

 叫び疲れたイアンが後方で静かにこちらを見ている。それは何かを待っている目だ。何かが始まることを知っている目だ。

 クレイトンの視線に気づいたジュールズがほんの少し首を捻る。野卑なせせら笑いを浮かべ、半眼を彼へ向ける。

 「あいつは使い過ぎてもうすっかり古くなっちまった。ちょうど飽きてきたとこにクレイ、お前が現れたって寸法だ。また随分イカした天の配剤もあったもんじゃねぇか?」

 眉を寄せて同意を求めるジュールズは、クレイトンの左腕を掴んで身体を起こしてやる。もう何が起きているのか、彼には理解を越えていた。貴族的な雇主、実状はこの世で仮定可能のあらゆる欲望に忠実な、ローマ皇帝直系の子孫。彼に一体誰が逆らえる? 母親にすら不可能なことを、下男身分のクレイトンができるはずもない。尤も相手へ『下僕』程度の認識があればである。
 暴君は脱力で抵抗を諦めている彼を促し、重いはずの体躯を器用に操って衣服を剥いでいく。当然のように水中へ突き落とし、更に自由を禁じる。
 続いてローヴを脱ぎ去り前方へ飛び込むジュールズは、クレイトンを見据えたまま水を掻き、人魚のように彼へ纏いつく。太い首へ回す両腕の感触を楽しみながら、惚けたように懼れを見せる相手に微笑んだ。
 片腕を解くと、それは対峙する2人の間へ消えた。相手の視線が外れないから、クレイトンもただ睨む努力をしてジュールズの顔だけを見つめる。だが思わぬ痛覚を知らせる下腹に、声を洩らしてしまう。

 「ふ〜ん…何だよ、これ? でかいモノ持ってんだろうとは思ったが、何でもうこんなんなってる? オレを楽しませたいと思ってくれるのはありがたいが、そりゃお門違いだ。ちっとも面白くねぇな」

 クレイトンは握られる陰部に呼吸を浅くし、話者と歪んだ水面を交互に見やる。遅すぎるが、逃げ出したい焦燥が彼を襲う。クレイトンは触れられる前、正確には衣類を奪われた時から、血流はそこへの集中を開始していた。
 不機嫌に歪められるジュールズの面は、しかし水中摩擦で弛緩していく精悍な裸身と、好対照に怒張していく陽根に満悦する。彼は他方の腕も沈め、クレイトンの両内腿へ差し込んだ。あるはずのない水流を感じ、彼は感じる必要もなかった体内への流入に意識を遠退かせる。その一瞬の隙をついて、斟酌ないジュールズが自身を挿入させた。
 喉奥まで届いたのではないか? それほどクレイトンへ与えられた激痛は、彼から叫ぶ声すら容易に奪う。ほどなく戻った呼吸から切れ切れの吐息を洩らし、それでも意識を失わない自身が恨めしかった。

 「…フゥ……キツいな…でもキツいのは好きだ。お前みたく知らねぇ間にこんな育っちまったってガタイのヤツは特にな」

 慣れない水の中だが、逆に浮力がジュールズを支援していた。ヴァージン相手の鉄則でゆっくり動いていた彼の腰は水面へ緩やかな波紋を描くが、それも自制がきかなくなると、派手な効果音をバックに周囲へ大波をたてた。抵抗したくてもそれが適わない犠牲者の諦めた瞳が、余計に彼を狂わせる。
 誰かに犯される自分を想像できたか? かつて笑いかけられるのを心待ち、ジュールズの腹蔵ない朋友となることを、クレイトンは密かに望んだ。実は虚無によって澄明効果をあげていた瞳から、夜闇に煌めく猫の狡猾な閃光を放ち、その同じ蹂躙者は愉悦の自己実現のみを歓んで、自分を苛んでは嗤っている。

 『目覚めよと、呼ぶ声が聞こえ』

 ここへ戻ってこなければ一生知ることもなかった音の片鱗を、クレイトンは聞いたような気がした。
 彼らの営みを見せられ、指を銜えて見るだけではいられないのか、やがてイアンが合流する。だが彼はこの場の第一権力者を牽制し、クレイトンの背後で控えめに逞しい首筋へ唇を這わすだけである。その涙ぐましい倹しさに、主君は褒美の口づけを与えてやった。

 「いい加減目ぇ覚めたか? 口が酸っぱくなるほど呼んでたオレの声が聞こえるな? もう狸寝入りはきかねぇぜ。音楽室でお前はとっくに捕まってた……」

 闇夜の空へ吸収され、ダカーポし続ける喘鳴と咆哮の三重唱。
 ジュールズの痙攣と停止を受けて、クレイトンの限界もようやく解放を間近に迎える。体内へ流れ込むのは水ばかりではない。数秒後、鼻先を出ていく啜り泣きにもはや羞恥を必要としない証拠が、クレイトンとジュールズの向き合った腹の間へ放出された。揺らめきながら立ちのぼる白濁は、幼い頃父とフライフィッシングに出掛けた川岸の情景を彼へ見せた。
 身を震わせた刹那、体内から無数の卵を吐き出した虹色に輝くトラウト。幼いながらも、生き物の生態系を繋ぐそんな産卵行為がとても神秘的だったことを、途切れる意識の中クレイトンは思い出している。

*  *  *  *  *  *  *  *

 心配そうに覗き込んでいるのは、意外だがイアンの顔だった。横を向いて何か合図でもするように頷いた彼は、薄く微笑みかける。だから初めそれが誰かわからなかった。しかも彼はクレイトンの額へ掌を乗せ、病気の我が子を独りで眠らせたくない忙殺された母親が懺悔代わりにするような優しさで、頬へ口づけた。
 いまだ完全に目覚めきってないのだろうか?
 だがクレイトンは、新たに視界へ現れたジュールズに、これが夢ではないこと、そして下肢へ残された鈍痛もまた現実であることを教えられた。

 身を隠してしまいたい、なのにそんな気力は爪ほども残されてはいない。しかも年少の男は薄明の光を頬に受け、夜の獣性は月の撤退と共に消滅させたと言わんばかりに、普段の高潔で穏やかな笑みを見せさえする。

 「……ジュールズ……」

 だが後の続かないクレイトンへかぶりを振り、雇い主は優しく微笑みかけた。

 「少し休憩だよ、クレイ。お茶をいれるとしよう。アイスティーで良かったな?」

 そのあと今度は、ゆっくり別の趣向で楽しむとしよう、ねぇ、クレイトン・ブーン?
 彼は天空を見上げながら、堪えきれない喉奥からの笑い声を解放してやる。クレイトンを眺める2人は不審でなく顔を見合わせたが、彼を独りにしてやった。
 何も知らずに昇りくる太陽は、涙を流して大笑いする男、晒した裸体へ思う存分無断で光を吸収するクレイトンの無法に、いくら軌道の正確を遵守したとはいえ、きっといい顔をしないことだろう。
 長くて不透明な夜が完全に明けきっても、まだクレイトンはプールサイドで笑い転げている。
 それは、宥めても賺してもぐずりやまなかったのに、と若い夫婦を困惑させる先から、至福の苦笑をもたらしてくれる、乳飲み子の気紛れな無垢にも似ている。
                                     FIN

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