DARE NOT AIR
by スギオメル


 礼的に4度、個室へのドアをノックするデボラ・ルイスは、許可を待たずに入室する。

 「おはようございます部長。ウィルフォード事件の報告書とコピーを2部、それと新任者ガイドライン改正案のドラフトがあがってきました。サインいただけますでしょうか」

 整頓された机の上、茶封筒から数葉の書類を取り出し、秘書は整然と並べ始める。

 「午前10:30より監察委員会、G3会議室にて開催、午後12:30市長補佐・ブラックマン氏と会食、こちらは先ほど指定を受けたヴァーモントのチャイニーズレストランへ予約確認とりましたところ、午後1:00に変更とのことです。次に…」

 そこで機銃並の早口を止めるデボラは、刑事部長である上司=エドマンド・エクスリーが、爪の甘皮を深剥きして鮮血を滲ませ、形良い眉をわずかばかり寄せている横顔に気づいた。
 清潔に刈り揃えられた髪、ウォール街の企業戦士劣らず着こなされるオクスフォードのボタンダウン、同系色のネクタイ。10以上も年上の同僚や部下に気負うことなく保たれている、かつて一度も余分な脂肪をつけたことがないと容易に想像できる痩躯。かといって病的な非力とは無縁で、霧深い湖水が湛える湖面に似た静謐なブルーの瞳は、時に猛禽の鋭さを宿す。
 デボラは過日、前任のベックリー付きだったシンディが、着任した彼を見てついた溜息と率直な羨望を思い出した。楽な仕事に異動できるのは嬉しいんだけど、あんたとのトレードをこんなに後悔させられるなんて思わなかったわ。
 部長昇格の最年少と最速レコードを同時更新したエクスリーの下で働くことは、確かにデボラにとって千載一遇だった。その堅物ぶりが周囲を鼻白ませるまでは。

 「すみません、エクスリー部長?」

 いつでもあとで軽率を嘆くこどもが自虐的になるように、エクスリーは今度は大々的な攻撃を指に加えるべく、同じ場所へと歯を立てている。
 等分に分かれた白い前歯が見えた。
 机を叩こうとして伸ばしかけた掌を、秘書は握りしめた。
 紅潮する頬が否応も意識される。
 そう年の変わらない若い異性のなんでもない仕草なのに、それはひどくプライベートな部分を覗き見てしまったようで、特定の神を持たない彼女にさえ、理由なき羞恥を喚起させた。上司は続いて、舌先を尖らせ患部を突いてさえいる。
 業務連絡に上の空のエドマンド・エクスリー。
 カリフォルニアで迎えるホワイトクリスマスぐらいあり得ない情況に、デボラはもう自分の職務を放棄しかけている。
 惚れっぽいシンディは、よくタバコを吸ってるくせにあたしからせびろうとする。どこか一点を見てるようで、その実何も映してない目は、それ以外見ようともしなくなってる。エクスリーもあれと似たような感じだわ。
 でも待って、じゃあ彼も誰かに恋してるってこと?
 淀みなく敷設された出世と、終着地点である市警本部長の椅子にしか興味なさそうな、このつまらない坊やが、一体だれを?

*  *  *  *  *  *  *  *

 夜勤明けで半分朦朧とする頭を、不味さによる怒りで醒ましてくれると期待したコーヒー片手に、バド・ホワイトは中古のビュイックを走らせる。
 リンが用意してくれているたっぷりのマッシュポテトとフレンチエッグの朝食を想像すると、自然唾液が口内に満ちた。
 雑居ビルの警備員の仕事は、ほとぼりが冷めるまでの腰掛けに過ぎない。
 ただこの居心地良さは、次第に過酷だった過去へ引き戻すことを難しくするだろう。
 その反面、ある記憶を忘れようと努力する、強迫観念に駆られた滑稽な自身を思い出させるのに余念もなかった。
 薄明の一条が疲弊した瞼に突き刺さる。
 ホワイトはやっと片目だけ瞑ってハンドルを握りしめ、今日が明けていくハイウェイを見据えた。
 明るくなり始める彼方一点に、人影を見留める。辺りはまだ死んだような静けさが支配している。
 こんな時間にハイカーか?
 ホワイトは不審に思ったが、後続車も対向車もない静寂は、向かってくる影がまだこどものようだと確認させるより早く、彼にブレーキを踏ませた。
 窓を覗くと、『ANYWHERE』と書き殴られたカートンが少年の脇へぶら下がっている。

 「どこでもいい? また随分ヤケっぱちの家出だな」

 声につられて上がる顔に、彼は一瞬息を飲む。

 『エクスリー?!』


 進行方向でないドライバーに興味はないと言いた気な少年は、返事をしなかった。その数秒は思い違いに気づくのに十分だったが、同時にこんな場所ですぐにも彼を思い浮かべたことを苛立つのも簡単だった。

 「…どんな理由でうちに帰れないのか知らないが、のたれ死にたくなかったら乗れ」
 「勝手に決めつけんな、誰が家出小僧って言った?」

 まだ15、6歳だろう。しかしなぜこの少年を彼と思ったのか?
 伸ばしっぱなしの少し脂っぽい明るいブロンド、まるでサーカスの綱渡りじみた発育不全の痩身、薄汚れた上衣と裾を派手に引き裂いたらしいジーンズ。
 エクスリーは制服か、きちんとネクタイを締めたところしか見せたことはない。
 いや、嘘だ。
 あのクリスマスイブ、それを全部奪い取ったのは誰だ?
 ホワイトは急いでそれを打ち消し、羽虫がまといつくのを払う仕草をした。

 「わかったよ、どこ行きたいのか知らんがそこまで送ってやる。あと1時間はイタチも起きねぇぜ?」
 「わかんねぇおっさんだな、あんたが行くのはあっち。オレとは逆だろが」
 「どこでもいんだろ?」
 「あんたが向かってるとこ以外ならな」

 少年はホワイトをやり過ごそうと歩き始める。彼は車をバッグさせ、なおもハイカーの隣りで横付けに進んだ。

 「それもいいけどな、オレは2日後お前さんとモルグでご対面なんざしたかねぇ。気に入らねぇだろうが街までは送らせてもらうぜ。一生ワリィ夢見てうなされんのはごめんだからな」

 少年の小さな顔がホワイトを捉える。そこでやっと彼は、最初の連想があながち誤りでなかったことを知らされた。
 少年は大層くたびれた投げやりな格好だったが、利発そうなアーモンド型の眼は、血色を失った薄い唇が何か言いた気に半開きになった、あの夜の元同僚にそっくりだった。未完成が唯一許され、それを簡単に美点へ転化できる期限つきの特権に生きていることを、本人だけが知らない傷ましさが、彼らを形成していた。

 「…あんたを信用していい証拠は?」
 「申告するものは何もありません、裁判長殿。なぁ、頼むからオレを薄情モンに仕立てんでくれ。青少年育成条例っての知ってんだろ?」

 と、昔取った杵柄よろしく、実は何のことだかさっぱりわからないものをひっぱりだしたホワイトは、元刑事の立場から見過ごせない状況改善に腐心する。
 少年はまだ警戒を解かなかったが、相手の真摯を彼なりに咀嚼して認めたらしく、声のトーンを落として応えた。

 「オレ…戻りたくなんかないんだ…」
 「わかったよ、とにかく街までだ。どうしたってガス欠寸前のこいつじゃそこまでが限度だからな」

 ホワイトはドアノブを一つ叩き、ふいの音に驚いて睨みつけた少年へ笑いかける。車を素早くUターンさせ、助手席のドアを開けてやった。

 「お望みどおり、これで戻らなくて済むぜ?」

 少年は足元とホワイトの肩付近を交互に見たが、意を決し車内へ滑り込んだ。ホワイトは寸前少年の喉を上下させた決意の重みに苦笑しそうになった。
 本当はいいトコの坊やなんだろう、言うまでもなく初めて下したこの判断に、縋りつきたいほどの祈りが込められていることは明白。
 彼は何か軽口でも言ってやりたかったが、悲壮な青白い横顔を見るとそれも自然胃の底へと沈んでいった。

 「バド・ホワイトだ。お前さんは?」

 アクセルを踏んでスターターを入れながらホワイトは問う。

 「……ダニー」
 「ダニー何だって? 年は?」
 「…紳士録できたら連絡先は編者気付にしといてくれよな」

 苛立つ声にホワイトの方で少し動揺した。

 「悪いな、つい癖で…前の仕事が抜けなくていけねぇや」

 ホワイトは肩を竦め、前方へ視線を戻した。
 すぐさま返された応答に、今度は少年が驚いた顔を向ける。

 よほど彼、というか自分以外は全て敵と思っているのか、年長者からの謝意が珍しかったらしく、少年は彼ら特有の不安定に忠実で、目まぐるしく表情を変えた。
 だから、ホワイトがほんの少し披露した元の職業に関する提案訴求を、少年はしようとしなかった。

 「…アップショー…ダニエル・アップショー…じゅう……く…だ…」

 バド・ホワイトは薄く微笑み、一つ頷く。
 取り繕い不可能な全くの嘘にうんざりする少年が、間髪入れず窓を開け放ち、深呼吸したからだった。

*  *  *  *  *  *  *  *
 
 その見知らぬ街の耳馴れぬ名前の店を、彼は今日の午後、署内から2ブロック離れた公衆電話まで歩き、そこに置かれるぼろぼろの電話帳で調べた。
 定時帰宅後、あまり袖を通したことのないスウェードの茶色いブルゾンと、随分昔に買ったのにまだ腿付近に余裕のあるリーバイスに着替える。いつもの銀縁を外し、丁度瞳を隠してくれるぐらい色の入ったサングラスに替え、彼はガレージへと向かう。
 彼のプリマスは路上へ停まっている。だがエクスリーはそこへは向かわず、ガレージ中にある古いパッカードへ乗り込む。
 それは昨日のうちにレンタルしておいたものだ。
 車をバックさせてプリマスに向かい合うよう停め、エンジンもそのままに、今度はプリマスへ乗り込みガレージへと戻す。
 これら綿密な工作数々は、あとで悉く彼へ自罰感を与えるものだが、今はまだエクスリーへ自嘲させるだけの効用も留めていた。
 彼は慣れないサングラスのため慎重に縁石を避けながら、中古車へと戻る。
 ハンドルを握りべとっとした触感に一瞬手を離す。見ると数本の分かれた縞模様が見えた。エクスリーは小さく舌打ちしたが、生憎手袋を持ち歩くほどの寒さにほど遠い5月の黄昏だった。
 だが彼はこれから行こうとしている場所や望んでいる行為を考えると、脂じみたステアリングが一体どうしたといった横柄も湧いてきたので、常の彼ならば信じられないことだが、そのままアクセルを踏み車を発進させていた。
 ふと覗いたバックミラーに映る者を、エクスリーは睨みつけた。すぐに無邪気とも言える微笑みを浮かべ、視線を逸らす。
 彼は念入りに撫でつけられた前髪に手を入れ、きれいに櫛の入った髪を蹂躙した。秩序を失って緩いウェーブを著す暗いブロンドの一房が額に零れ、視界隅が捉える。
 再びミラーを見るエクスリーは、そこに浅薄そうな年相応の若者を見留め、もう一度微笑んだ。
 エドマンド・エクスリーを知らない街。
 宣誓要らぬ地平へ赴くための儀式が滞りなく済んだことに、彼は満足している。

*  *  *  *  *  *  *  *
   
 照明としての役を担っていない紫やブルーの光と、タバコだけとは思えない靄がかった店内大気に、エクスリーは一瞬吐き気を催す。
 知らない街、初めての店、聞いたこともない音楽、得体の知れない臭気。
 地下へと続く階段を降りきってドアを開ける前から、自分が後悔していることは知っていた。
 だが彼は今夜、どうしても一人でいたくなかった。

 休日の明日へ続く永遠のような孤独を、一つの想いに囚われ過ごすなどできない。
 自分はただ欲望に忠実なだけ、どんな男にもあって当たり前の夜。
 エクスリーは自身へそう言い聞かせたが、あまり深慮しなかった選択結果に早くもたじろぎ始めていた。
 奥のボックス中、それほど若くない男が二人、激しいキスを交わしている。
 その隣りの電話ボックスへ眼を向けると、同じ年格好の男の前に、中年男が跪いている。頭部を忙しなく前後に揺らしながら。
 エクスリーはきつく眼を閉じて、逃れるようにカウンターへ座った。すかさず近寄ったバーテンダーへウィスキーを告げ、とりあえず渇いた喉を潤してやる。
 わかっていたくせに、自分の行動が今更信じられなくなった。
 さも待っていたように、無言で男が隣りへ座る。無精で伸びたらしいダックテール、立ち上がらずとも自分より優に3インチは上背が、5ポンドは体重もありそうな、労働者風の男。発達した二の腕と胸筋を誇示するTシャツは盛り上がる肌に張り付き、身体の割に地味な造作の顔面パーツで最も小さい瞳と、猪首を覆う顎髭は飼い慣らされた熊でも簡単に想像できる。

 エクスリーに対峙する大男は、細い眼をさらに細め、彼を見た。

 「…新顔か、坊や……」

 うるさいぐらいの店内なのに、はっきりそう聞きとれる。男は言いながらエクスリーのほっそりした腿へ毛むくじゃらの手を置く。
 彼は布上とはいえ移動を始める感触に嫌悪以外のなにものも感じなかったが、相手の顔面を殴りつけたい暴挙を抑えることはできた。
 男をきつく睨みながら、ゆっくりと上体を移動させる。隣りのスツールへ移った彼へ男はなおも手を延ばすが、エクスリーは軽くその手を打った。

 「…失礼、あなたの意向に添えるとは思えませんので」

 エクスリーは冷血に言い放ち、二度と横を見なかった。
 ここで拒絶は最大の恥辱だったが、執拗はさらなる非難を呼ぶ行為でもある。男は名残惜しげに舌打ちしたが、すぐに暗い店内へ獲物を求め徘徊していった。
 誰か相手が欲しかったから、オレはここに来たんじゃないのか?
 矛盾した自分の行動に混乱しそうになる。まだ半分残っているグラスの中身を呷るが、何の味もしない。馬鹿な、オレはやっぱりあいつを…。

 「隣り、いいかい?」
 「いいかげんに…」

 邪険に吐き出される言葉が途切れる。
 エクスリーは咄嗟に顔を前方へ戻した。話しかけた相手は、座っていいのか悪いのか一瞬迷ったが、結局都合良く解釈した。

 「記憶力はいい方じゃないけど、ここ初めて? あぁ、ごめん、オレ、バート・コンウェイっていうんだ。良かったら一杯つき合ってもらえるかい?」

 うまい嘘がでるほど、エクスリーにはもう余裕が無かった。
 バート? そんな、名前まで……彼はちらと隣りを見てから唇を噛んだが、小さく頷いて見せた。

 「そう、ありがと。何飲ってたんだい? あぁ、ハイボールでいいかな、死んだ婆さんの遺言で初対面のひとには必ず奢れって一族の決まりなんだよ」

 外側にいくにつれ心持ち下がった目尻、太い眉、それほど長身でもないががっしりした体つき。そして深みのある声。彼はタバコの吸い過ぎでもっと掠れていたけれど。
 無頓着だが疲弊感と安っぽさを感じさせない服装だけが、彼とは明らかな別人と認識できる根拠で、それがエクスリーに安堵と警戒のせめぎ合いで葛藤させた。
 バート、と名乗った男は近くに部屋を借りているビジネスマンで、ここへは月に何度か立ち寄る程度、常連とも言えないことを明かした。彼の小気味いい話術にエクスリーは簡単な相槌を打つだけにしていたが、次第におぼつかない錯覚が聴覚に起き始める。
 酒や店内の大気ばかりのせいではなかった。
 視界がぼんやりして、眼の縁から体温以上の上気が発散しているような気がした。のぼせたように息苦しく、小刻みな吐息が唇を洩れた。
 身体の芯が、溶けたか発熱しているように、定まらなくなっている。

 「エド、どうした、気分でも悪いのかい?」

 誰だ、こいつは? なぜオレの名を?
 コンウェイはスツールに座っていられなくなったエクスリーを支え、店を出る。

 精算はいつのまにか滞りなく行われているらしかった。

 「少し横になった方が良くないか? オレの部屋すぐそこだから」

 燃えるような身体から解放されたいエクスリーは、結局この申し出を受け入れる。
 辛うじて残っていた理性の片隅では、彼の陥った状況が仕組まれたことと気づいていたけれど、制御不能のこの肉体ではどうしようもなかった。
 数分か、数時間か定かでない時を車に揺られ、彼は見知らぬ部屋のベッドへ投げ出された。自身の首尾を得意がるでなく、コンウェイはゆっくり着衣を脱いでいく。

 「心配ないよ、あんたは本当にラッキーだ。その催淫剤はすごくいいブツだし、それ以上にオレは腕がいい。泣くほどいい思いさせてやる、保証するよ」

 ミランダ警告みたいだ、エクスリーは彼の淀みない口上を虚ろに聞きながら、脳の半分では結局こうなってしまった状況に笑いたいような気分にもなっている。

 「何かご要望あるかい? 大抵のことなら満足させられると思うぜ」

 週3度はジムに通っているらしい平均的ワークアウターの上半身を見せられたエクスリーは、どこか興ざめしている自分に気づく。男は確かに似ているけれど、あいつはこんな造りこまれたわざとらしい身体じゃなかった。
 バドはここまで締まっていなかったけれど、それはすべて職務で育まれた成果であり、実用的で、触れる歓びを実感できる機能的な美しさを備えていた。

 「…ん? 何と言ったんだ、エド?」
 「……ひどく…してくれ……あんたがしたこともないぐらい…」

 男は一瞬怪訝な顔をしたが、まもなく相好を崩し、狡猾に笑いかける。それは彼にとっても悪くない提案らしかった。

 「オレが今どれぐらい喜んでるか、あんたに知ってもらえなくって残念だよ」

 コンウェイはベットへ這い上がり、無抵抗のエクスリーへ口づける。

*  *  *  *  *  *  *  *
   
 「なぁ、お前さん、オレぐらいの叔父さんとかいるか?」

 一体何の話だ、気味悪そうにドライバーを見るダニエルに、バド・ホワイトは言い直す。

 「いや、お前によく似た知り合いがいるんだ。他人のそら似にしちゃちょっとできすぎみたいで」
 「この街かよ?」
 「…いや、そうじゃない」
 「アリゾナになら母親の親戚住んでる…」
 「LAなんだ、そいつがいるのは」
 「親戚も従兄弟も、友だちだってそこに行ったこともなければ知り合いなんてもちろんない。まだ何か?」
 「わかりましたよ、大佐殿。オレの知り合いなんざどうだって良かったよな」

 その応答に、ダニエルは多少苛立ってしまった自分を恥じ、再び窓外の何もない風景へ視線を戻した。
 柔らかそうな髪、細い首筋。
 そんなところばかり類似を見せつけるこの少年は、ホワイトへ否応も彼を思い出させる。
 尖った顎を無理矢理後ろへ向けさせ、噛みつくように貪り合ったキス。
 何だってオレはこんなガキ拾っちまったんだ?
 早く家へ帰るべきだった。
 そしてたっぷりとした朝食を摂ったあと、リンとセックスしたかった。

*  *  *  *  *  *  *  *
 
 お望みのままに、と言ったのに、バート・コンウェイはまるで自身の好みにしか忠実でなかった。
 エクスリーはそんな風にしたいのではない。
 今自分が誰に嬲られているのか、考えられないほど手ひどいやり方で犯されたかった。
 彼は決して、愛し合いたいのではなかったから。
 コンウェイはエクスリーのほっそりした身体に余すことなく舌を這わせ、彼の反応を見て楽しんでいる。
 だがエクスリーは少しも声を上げず、頑なに唇を噛みしめているだけだ。

 「…エドォ…我慢は身体にはもちろん、精神にだってよくない…いいならいい、そう態度で示してくれないか?」

 健気に輪郭を露にするエクスリーの胸の突起へ歯を立て、コンウェイは無理矢理開いた足の付け根へ手を這わせる。まだ開ききらないが、小さな収縮を繰り返す秘所へ指を1本差し込んだ。
 喉を震わせるエクスリー。見開かれる眼で相手を見上げ、抗議しかけた唇へコンウェイは同じ指を挟ませる。

 「ほら、いいかい、よーく濡らすんだ。でないとつらいのあんただぜ」

 コンウェイは指を増やし、苦しさに涙を滲ませるエクスリーの舌を口内で器用に掴んだ。内部はすぐにも唾液で溢れ、まもなく彼の口端からゆっくりと一筋の糸が零れる。
 平坦な丘陵を辿り、コンウェイは徐々にエクスリーの中心部を目指した。
 彼は薄い体毛も疎らなそこから、同じく滑らかな腹部を打ちつける別の生き物を見て、満足したように含み笑いした。新鮮な潤滑液をまぶした指で再び入口付近をさすり、躊躇なくペニスを口に含む。

 「ノーーッ、止めろっ! そんなことするなっ!」


 溜まらず上がる叫び。
 コンウェイは眉を寄せるが、含んだものを一舐めしてから渋々解放する。
 それに声を上げそうになったエクスリーだが、幸い音にならなかった。

 「そんなにヤられたいのか?」

 またなんと直截な言い方だろう。
 耳を塞ぎたいのを堪え、エクスリーは相手の顔を見ず頷き返す。

 「さっきまではどちらのレディかと思ったが、とんだ色狂いってわけか。わかったよ、面倒くせぇこた止めだ、そらとっとと後ろ向きな」

 突然粗暴になる男の言う通り、エクスリーは俯せる。

 「んだよ、それじゃオレが動けねぇだろが。てめぇのケツこっちに出して上げんだよ」

 けものの交尾姿勢をとらされるエクスリー。苦しければ快感を超えられる、そう信じていたのに、今彼はより耐えがたい屈辱を感じていた。
 オレはこんなことを望んだのか?

 「いいか、これはお前さんに頼まれてやるんだ。だからさっきみてぇにすかしててみろ、てめぇのムスコ握り潰してやるからな。わかったか?」

 おそらくコンウェイには言葉で責めることも、相手の要求を満たす条件に含まれていたのだろう。
 だがそれはエクスリーにとって、ただの恥辱でしかなかった。
 彼は感じたくないのだ。
 これは単なる『処理』、その確信が欲しかっただけ。
 まだ充分開ききらないエクスリーのアヌスへ、コンウェイは躊躇わず侵入する。瞬間、エクスリーの悲鳴が聞こえた。

 「…フゥ…いいぜ、ちときついが…その調子でいい声聞かせろよ…」

 潤滑不足の注挿は容易ではない。さほど太くもないコンウェイでも、穿たれるのに慣れていないエクスリーのそこへは、初め痛みだけを与える。だが、徐々に弛緩していくにつれ、当然来るべきポイントを探りあてた。

 エクスリーは耐えることを止めた。
 彼は堰を切ったように喘ぎ、だんだんとグレードを叫びへ譲ってやる。
 コンウェイの機械じみた律動と猥らな息遣いに合わせ、エクスリーも自身の腰を揺らす。短い叫びを間断なく吐き続け、彼はぼやけるイメージが像をなしていく錯覚中、ひたすら昇りつめていく。
 上位の男が抜き刺しを絶えず上体を屈め、エクスリーの項へ唇を這わせた。高温の吸排が耳朶を打ち、彼は熱によって余計鮮明になるイメージを形成させる。
 エクスリーの下腹へ手を回し、しっとりと濡れている彼のペニスを握るコンウェイ。

 「ノーッッッ! 触るなぁぁっ……」
 「…んだと?…おまえ、もしかして後ろだけでイケるクチか?」

 卑俗な笑いの隠る囁きに、エクスリーは涙を湛えた眼を向け睨みつけた。
 そんなはずない、このオレが…。
 だがまもなく、コンウェイが派手に呻いて動きを止めた時、耳の後ろで軍隊が行進でもする騒音を聞きながら、エクスリーはシーツの上へ、触れられることのなかったそこから乳白色の性を散らしていた。

 「…バ……ド…ォォ……」

 歓びと嘆きをない交ぜた咆哮と共に、その上へ倒れこんだことは憶えていない。

*  *  *  *  *  *  *  *
 
 「なぁ、おっさん」
 「…そりゃオレはお前から見りゃオヤジだけどな、も少し言いようってもんが…」

 ダニエルの呼びかけに脇見したホワイトは、不平の続きはもちろん、一瞬ハンドルを握る腕の感覚を忘れ、右方向へ流れる車体にハッとして標識への衝突未遂を偽装できた。
 そういやこいつらは、もうオレなんかとは別モンだったっけな。
 こどもの環境応力とやらは、実に得体が知れないと思う。
 まだ10分に満たないドライブなのに、少年はもう先刻の落ち着きなさを消し、完全にリラックスしている。窓へ肘をついて頬を支えながら、怠そうにホワイトを見ている。
 さも、自分の方が乗ってやっている、あるいは、出来の悪い生徒を気の毒がる運転指導教官のようだ。
 どの感情にも属さないと思える表情は、ギャラリーの壁を飾る名画にも見られるが、5秒後には思い出せなくなるだろうことまで類似している。硬質で冷たい面はホワイトの眉を寄せさせるが、彼は同時にそれがひどく艶かしいことにも気づいていた。
 そんな風に考えた不埒が、どうにも募る苛立ちを持て余し始める。
 ダニエルは退屈そうにダッシュボードの取っ手を弄んでいる。話しかけた覚えなどない、というふうに。

 「…何だ、ぼうず。腹でも減ったか?」
 「…19って言ったろが…」
 「あと3年もすればな。それよか今呼ばれたと思ったのはオレの空耳か?」

 少年は骨ばった足を組み、そっぽを向いてしまう。
 そうかよ、ったく、勝手にしろ。
 見たこともないが彼は禅僧の精神統一を試み、自分が神秘的な森を一人静かに走っているのだと想像した。隣りには、同じ人間でありながら正体不明で意志疎通も絶望的な者などいない、と必死に言い聞かせながら。

 「…あんたの何なんだよ?」

 「あぁ?! 何だってぇっ?」

 思わず急ブレーキを踏み込むホワイト。
 タイヤの軋り音が耳をつんざき、車は停まった。もとの静寂に包まれる。

 「…いいか、オレはな、お前と心中なんざゴメンなんだよ。どういうつもりか知らねぇが、ちったぁ礼儀ってものを弁えろ。お前らの流儀じゃそれもいいんだろうぜ。だがな、少なくともオレにゃ通用しねぇんだ。面白くねぇのはてめぇの勝手だが、それを他人様に向けんじゃねぇ。いい迷惑以上に、あとで後悔すんのはお前さんの方なんだぜ」

 人指し指を相手へ向けるのは、刑事時代からホワイトの癖だった。今もついそれをしていた彼は、微動もせず明らかな怯えを瞳に宿した少年のせいで、逆にその手を飛び退かせた。
 その習慣があまり評判の良くないものだったのを、ホワイトは今更思い出し頭を掻く。

 「や、その、悪いな、怒鳴るつもりはなかったんだが…オレはつい後先考えねぇで…」

 黙って聞いていたダニエルは、ホワイトをしばらく見つめる。
 すると少年は、唐突に彼を驚かせてくれた。
 大事故現場や血縁の葬式とか、そんな場所ではとてもじゃないが良識を疑われかねないぐらい適切でないが、バド・ホワイトは自分へ向けられるダニエルの微笑みに一瞬眼がハレーションを起こしかけた。
 あ、あぁぁ、勘弁しろよ。あいつと同じ顔で、笑いかけんでくれ…。

 「…すっげぇ迫力。良かったぜ、今の。フニャチン野郎に聞かせてやりてぇや…」

 このガキ……。
 ホワイトはかぶりを振り、イグニションキーを回す。

 「ねぇ、オレに運転させてくれな…」
 「絶対ダメだ! そこでじっとしてろぃ!」

 速度メーターがみるみる80を超えていくのを見て少年は鼻白んだが、それ以上何も言わなかった。

*  *  *  *  *  *  *  *
 
 だんだんシャワーの湯がぬるくなってくる。
 バスタブに蹲り側壁に凭れるエクスリーは、排水溝へ吸い込まれていく湯をぼんやり眺めている。
 徐々に視線を近付けていくと、紅い斑紋を腿の内側に見留める。
 鬱血痕は滑らかな肌理の秩序を乱し、堂々とそこで主張している。

 エクスリーは眼を逸らす。
 なんて汚いんだろう、忌むべき痕跡をひきちぎりたかったが、彼はやはり手の甲を噛むしかなくて、無実の皮膚を攻撃する。
 ふと、柔らかくなって横たわっているペニスを見る。
 ほんの少し前に演じた痴態が蘇る。
 見知らぬ者に抱かれながら、結局彼を呼んで、そこは暴発した。
 やがて無意識に、エクスリーはバスルームへ熱っぽい喘ぎを反響させる。
 そこがみるみる勃ちあがっていく。
 根本へ右手を添え、ゆっくりしごき始める。
 腰が連動して揺れる。
 空いている手が胸を探る。初めは指の腹で突起を静かに撫でるが、右手の速度が増すにつれ、親指を加えた左手は痛むほどしこりを摘み、小刻みに蠢きだす。

 「…バ…ド……バド…バド、バ……」

 しかし声はまもなく語意を捨て、慎みとは無縁の淫らな吐息だけになる。
 向かい合うバスタブの壁を、どろっとした白濁がスローモーションで落ちていく。
 彼は頭を縁に横たえ、支える肘の内側を噛む。
 息苦しい呼吸と同じリズムで、頚動脈を全速力で巡る血液の音を聞く。
 エクスリーは鼠蹊部へ手を這わせ、無駄な気休めだが、付けられた痣に報いたと思う。
 コンウェイが見ているとも知らず。

*  *  *  *  *  *  *  *
 
 バスターミナルを一周し、ホワイトはある路線でビュイックを停めた。

 「…ここでいいか?」

 彼は少年へ尋ねる。
 ダニエルは判断が危ぶまれるほども一瞥せず、ただ肩を竦めただけだった。
 だが少ない荷物を薄い肩にかけ、ドアは開けてくれた。
 どこか安堵しつつ、ホワイトも車外へ出た。後悔は減っていたが、決して爽快でもない。
 二人は並んで歩き、1台のバスへ向かう。彼はタラップを昇る少年を見守り、席へ移動するのに従って自分も後方へ歩く。
 幸いダニエルは窓際に座ってくれた。

 「……結局どこ行くんだよ?」

 見上げる先で少年が遠い眼をした。彼は瞬きを忘れたようになっていたが、こう応える。

 「…どこでもない……」

 ホワイトは苦笑し、車体を一つ叩く。

 「またそれか。ま、いい…達者でな」

 「あんたも……」

 その時バスの乗車ドアが鈍い音をたて閉まった。極北の雪解けに似たエンジン音が辺りへ響き渡る。
 ホワイトは顔の脇へ手を上げる。何か言いかけるが、適当な言葉は思い浮かばなかった。わけもなく焦慮が募ってくる。

 「…ダニー…その…」

 バスはゆっくり前進し始める。車輪に合わせ歩むホワイト。

 「…じゃあな、シケたおっさん。あんたのエクスリーにもよろしく」
 「なんだと?!」

 硬直するホワイトの足元に、黒く小さなものが落ちる。
 もともとあまり持ち合わせはなかったが、拾い上げた彼の財布に入っていた数枚の紙幣は抜き取られていた。
 だが裏に記名のある彼の写真が、通常に反して表面を向き、カード入れに納まっている。
 顔を上げた時、少年が窓から身を乗りだし、何か言っていた。
 ホワイトは忽ち駆け出して車を追う。まだターミナル内にいるバスに、彼はまもなく追いついた。

 「なんだってぇぇ? 聞こえね…」
 「……い…け……よ…」
 「どこにだぁ?!」

 ダニエルは二度目の笑顔をホワイトへ向け応える。

 「…行きたいんだろう? そいつ、エクスリーってヤツに会いに……」

 信号待ちを終えたバスはみるみる加速し、彼を置き去りにした。
 最後尾を見送りながら、バド・ホワイトは息を切らせ、少年の言ったことを反芻する。
 あの野郎、一言の礼もなしに行っちまいやがった……。
 とはいえ、それより遥かにありがたい助言をダニエルが与えてくれたことに、彼も気づかないではない。
 あいつは一体、何者だったんだろう?
 どうやらオレは行かなければならないらしい。

 会わないと……あいつに…。
 同じ頃、エクスリーも夢想している。
 逆上する男の下に組み敷かれている間に。

*  *  *  *  *  *  *  *
 
 「すぐ出かけなくちゃならないこと? 夜勤だったんだもの、少し休まないと身体に毒だわ」

 青白いリンの顔が暗く曇る。薄化粧の済んでいる整然とした表情に、明らかな不満。
 テーブルに並べられた皿は、もう湯気をたてていなかった。料理すべてに手はつけられていないけれど。

 「…謝りたくないんだ」
 「そんなことして欲しいんじゃないわ。ただ…あたし心配なのよ」
 「気にすんなって。言ったろ、やっぱもう刑事は止める、そうあいつに言いに行くだけだ」

 腕を組むリンは、どうせ自分に引き留める力はないけれど、明確な異議は示したかったので、それ以上何か言うのは止めた。
 バドは奥歯を噛みしめる。なんてとんでもねぇバカ野郎だ、オレは。

 「いってらっしゃい、バド。眠くなったら運転しないのよ」

 「わかったよ、お前にゃかなわねぇな」

 再び家を離れていく男を見送って、リンは手を振る。ゲートを離れる寸前、バドは振り向き微笑んだ。彼女もそれに応える。
 あなたを愛してるけど、あなたは一生知らないのね。もう何度もこうして同じように見送ってるけど、なんでもない顔したあたしが、あなたはもう帰ってこないんじゃないか、って必ず考えてるのを。

*  *  *  *  *  *  *  *
 
 「部長、ご面会の方お通ししてもよろしいでしょうか?」
 「今朝ぼくは市長だろうが大統領だろうが誰も通すなと君に言ったはずだよ、デビィ?」
 「…承知してますけど、でも…」
 「言い訳は結構だから君の職務を全うしてくれないか」
 「わかりました、エクスリー部長」

 秘書の背中を見送って、エクスリーは肘掛椅子に頬杖をつく。
 溜息もでやしない。
 彼はぼんやりと窓を眺め、この瞬間にも街のどこかで誰かの血が流されてるんだろうか、と想像した。ふと、その仲間に入れてもらえるなら、どんなに素敵か知れない、とも考えた。
 狂ってる。
 ドアの外で言い争う声が聞こえた。怪訝に思った刹那、彼の瞳にエクスリーは射すくめられていた。

 「…困ります、ホワイトさん! 部長の許可はまだ…」

 デボラはまた窘められると思ったので、必死に強引な男をガードしたが、結局押し切られていた。気の毒なデビィ。
 だが彼女の杞憂はもう必要ない。
 無言の上司は早くも自分の存在を忘れたようで、彼女は手慣れた様子のミスタ・ホワイトが小さく礼を言って微笑み、退室を促すのに従った。

 「…エクス……」
 「話すなっ! 君はぼくの質問以外何も答えちゃいけない」
 「そしてお前の指示には絶対服従、だったな?」
 「黙れっ!」

 ホールドアップに投降する現行犯に倣い、バド・ホワイトは両腕を上げ自嘲するように笑った。
 二人の距離は、ほんの2mにも満たない。

 「どこのホテルを?」
 「まだ決めてない」

 真っ直ぐ来たんだ、ホワイトは言いたかったがやめた。せっかく厳しい顔を保っている相手を破顔させ、気まずい思いをさせるのも偲びなかった。
 第一、一瞬エクスリーの面を支配した弛緩が、言う前にそうと気づいたことを彼へ教えてくれていた。

 「Tristesseホテル1021号室。1時間後」
 「ルームサービスとっていいか?」
 「質問を許した覚えは…」
 「腹ペコなんだよ」

 眉を寄せウィンクするホワイトに、エクスリーはそれ以上抗えなかった。彼は頬を染め小さく頷く。
 同意を得たホワイトは満足そうに笑って背を向けた。
 エクスリーは右手を伸ばしかけ、それを他方で引き戻す。自分はあの趣味の悪いホテルのドアを開けるまではエドマンド・エクスリー刑事部長、と必死に言い聞かせながら。

 「そうそうめかしこまなくていいから30分で来い。じきあがりだろ?」

 ドアを閉めきる前に、首だけ室内へ残しホワイトは言う。

 「待たすのも待たされんのももう飽きた、お前はどうだ?」

 そこでドアは無情に閉まった。
 エクスリーには異議を唱える暇もなかった。
 オレがそうじゃないってどうして言えるんだ、バド?!
 だが彼は届けようのない不満はすぐ払拭し、受話器を取って暗諳している番号を押した。

 「…ハロー、エクスリーだが…部屋を頼む…あぁいや、わたしじゃなくて…そう、通してやってくれ…なんでも言う通り……何? なぜわたしが来ると思うんだ、ロジャー? どうやら上客をなくしたいらしいな?」

 
*  *  *  *  *  *  *  *
 
 握った拳をドアに向け、だが打つのを止めたエクスリーは静かにノブを回す。
 鍵はかかっていない。
 不用心な、いつもならそう思うところだが、今の彼には何の憂慮も必要なかった。
 なぜなら鍵をかけるのは彼の役目だから。
 後ろ手にロックすると、エクスリーは一つ溜息をついた。暗い通路を抜ける。リビングから歓声が洩れ聞こえる。
 瀟洒な内装をあざ笑うラフな服装の男が、クラブサンドを摘んでこれまた不似合いなシャンペングラス片手に、フットボール中継を見ている。傍らにあるデザートのチョコレートムースの容器を取り、小鼻へ寄せるが、その甘ったるい香りに顔をしかめ、元へ戻す。
 この張り込みがずっと続けばいい、とエクスリーは思う。

 「…早かったな」

 まだこちらを一度も見ていないホワイトは、リモコンを掴んで画面を消し、大義そうに立ち上がってようやく振り向いた。
 新しいテリトリーの支配権を前に模様眺めする野生動物のように、彼らはしばらく静かに対峙している。
 初めに均衡を破ったのは、無造作に上着をとるホワイト。
 続いてエクスリーが相手へ歩み、自身のタイの結び目へ手をかける。
 淡々と事務処理をこなしていく過程に似た静謐の中で、二人は互いがそこにいもしないように衣服を脱いでいく。
 カフスの外れる可憐な音を合図に、ホワイトはエクスリーの手首を掴んで引き寄せた。銀の留め金が床へ転がり落ちる。
 エクスリーは相手の瞳に映る自分を確かめ、眼鏡を外した。ホワイトの顔がさらに寄り、口づけされていた。
 身体にしみついた、キャメルの仄かな香り。
 ゆっくり瞼をおろし、エクスリーはホワイトの腰を支える。というより、早くもその体臭の懐かしさに眩惑されたから、倒れないために掴みかかった、というほうが正しい。


 「…シャワーを……」
 「ダメだ」
 「でもバ…」
 「いいから来い」

 先に立って隣室へ歩むホワイトの背中を見つめ、エクスリーは唇を噛む。
 たった今離れた感触が蘇り、指をその上へ置いてしまう。
 少し、荒々しさがやわらいだ、ように思う。
 彼は反対側のバスルームを眇めるが、結局寝室を選んだ。

*  *  *  *  *  *  *  *
 
 室内はとても静かだ、二声の性急な呼吸音を除いては。
 ホワイトの逞しい首の付け根へ、何度も口付けようとしても、それを相手が許さず、あくまでエクスリーを受諾者にするため、彼はもう対等を諦めることにした。
 ドアの前で多少は流儀を覚えたかと思ったのに、やはりホワイトの強引な愛撫に技巧性は見られなかった。だがエクスリーは、それを望んでいた。手慣れたカザノバの精緻な講習を受けたいのではない。
 ただ感じたかった、偽装を必要としない場所で、自分自身を忘れさせてくれる男を。

 「…ちょっと待て……」

 ふいに途切れるキス。両手人差し指を立て、ベッドを下りるホワイト。
 エクスリーは幾分訝るが、彼はほどなく隣室から戻る。手に何かを携えている。

 「……それは?」
 「お前、甘党だったな」

 全身の汗腺が活性化し、白のベースを淡いピンク色に染め始めている裸身の者へ言うには、実に時宜を得ない質問なのでは?

 「…ふざけたいんならぼくは……」
 「でも喰ってもらう。こっちが食いちぎられそうになるなんざ真っ平だからよ」
 「何を…」

 ホワイトはエクスリーの足首を掴むと器用に広げた。頬が熱くなる。エクスリーは顔を背けるが、ホワイトはものともせず、他方で持っていた容器の中身を掬い、ゆっくり彼のアヌスへ塗り込んだ。
 冷たさと不快に喉を反転させるエクスリー。
 抜き差しする指は順に2本、3本と増え、濡れた摩擦音を耳へ届ける。彼は出入りに合わせ、溜まらず声を洩らした。

 「目を閉じろ…その方が楽だぞ……」

 労りに満ちたホワイトの忠言で、エクスリーは自分がずっと見つめていたのに気づく。やすやす従うのも癪だから、彼はなおも抗戦的な一瞥を向けた。
 志は立派だが、いかんせん従順な反射神経は相手の味方らしい。
 ホワイトが中へ入ってきた途端、叫んだ自分をエクスリーは呪わずにいられなかった。
 俯せるエクスリーの背面へ被さる姿勢で、初めホワイトは下位者の両手首を囚えたままゆっくり動いた。チョコレートムースは及第の働きをして、注挿を支援してくれる。
 徐々に動きを早めるにつれ、ホワイトは彼の下でエクスリーが同じリズムで震動しているのに気づいた。しかも本人がそれと知らずに同調させているらしいことが一層彼の微笑を誘い、重ね合わせた指をさらにきつく絡ませた。
 ふいにホワイトはそのまま横転し、エクスリーのひかがみを取って自分の上へ乗せる。

 「…な……な…にす……」

 彼の両腿を軽々と掴み、ホワイトはいま一度接合をし直す。
 両膝と片手で重心を支えるエクスリーは、見下ろしながらも観察されている随分いたたまれぬ境遇に、つい視線を中空へ漂わせた。
 なにせこの迎え方は、彼の体重が自然に侵入者を促している証左でもあったから。

 「……バ……これ…だ…けは……」
 「動いてみろよ。お前が人形じゃない証拠をオレにくれ」

 半分戯け交じりだったら、これほど無体な依頼は逃れられたかもしれない。
 だがホワイトのあまりに真摯な顔に、エクスリーは拒絶こそ不当と思ってしまう。彼は確かにいくらかは逡巡したが、やがてホワイトは浜辺にでも寝そべって陽光を浴びるような安寧の表情を浮かべ、満悦していた。
 柔らかな薄茶の体毛が散らばる胸元へ両手を据え、脱力しないよう膝を叱咤し、エクスリーは腰を上下に揺らしはじめる。
 羞恥心。
 かつてエクスリーはそれを美徳と考えていた。無論それは普遍的な観念であり、時を選ばず賞賛されるべき思想に類するだろう。
 彼は今、それに付け加えるよりは、新たな注釈こそ相応しい補遺を実践している。
 それをいとも簡単に凌駕してしまう絶対的恍惚の前では、自分でさえ抗えず、あまつさえこの浅ましい姿を晒している事態に、えも言われぬ歓びすら見出せてしまうのだ。
 エクスリーは夢中だった。
 想像がいらないだけ、先日一夜の行為と何ら変わらない。ともすれば甦ってもおかしくない記憶に責め苛まれ、彼の正気を奪いかねない。
 でもそれもどうでもよかった。
 本物の解放を知るエクスリーは、今はただバド・ホワイトと昇りつめさえすればいい。
 忘れようとしても、結局身体が覚えていた彼の痕跡を偽る必要などないのだから。
 高密度の艶めいた喘鳴に反比例し、次第に緩慢になりつつあるエクスリーの上下運動に、ホワイトは多少の責任を感じたので、今度は自分のパートに邁進することにした。
 予告もなく起き上がると、ホワイトはエクスリーの尻を鷲掴んで持ち上げ、彼の腕を自分の首へ回させる。耳の後ろにかかる熱い息。
 ホワイトは頭を少し引き、不自然な格好だが半開きのエクスリーの唇を探す。差し込んだ舌も、高温の内部で熔解するかに思えた。くぐもった声と喉奥であがく吸排も意に介さず、二人は互いを貪り合う。

 「…エド……オレはお前を…」

 肺の要求に従ったホワイトは、間隙をぬってそう囁きかけた。

 「言う…な……それ…は……」

 息も絶え絶えになりながら、エクスリーはそれでも右手を上げ、ホワイトの唇へ宛うことができた。
 なおもエクスリーを穿ち続けながら、ホワイトは怪訝に思う。理由を告げずに再び頭部を仰け反らせるエクスリーへの報復として、ホワイトはより激しい突きを天へ向けた。
 エクスリーの叫びはあまりに高く、音にならなかった。雫が一粒、頬を伝う。彼はしがみつく指の爪がホワイトの肩へ食い込むに任せ、堅く秘匿してきたもの哀しい欲望を呟いていた。

 「…こ…わ……せ……粉々…に……」

 赦したわけでないが、ホワイトはずっとそうし続けたように、ひとまずエクスリーの専横を呑んだ。
 ユニゾンする2つの絶望的な喘ぎ。
 2つは野獣の唸りと甲高い嗚咽に訣れ、やがて見失った軌道に戻る過程で、移調するフーガを微かに奏でる。
 それは消えていくアダージョに似ているが、続く楽章がないことでは未完成交響曲だった。批評家にとっては首を傾げる不甲斐なさだが、かといってマーラーやシューベルトを責める者がいたか?
 真に音楽を愛する者には、おそらく憚かりを知らぬ激賞よりも、帰途に言い交わす控えめな感慨を持ち去るのを好む朋輩もある。
 たった今ベッドへ崩れ落ち、何か言うのも億劫に思える彼らのような者には特に。

 相手の首に回ったままの手を動かせず、肩で息するエクスリーの湿った前髪が、苦しげな顔に零れ落ちた。
 きれいだ、ホワイトはそう思う。
 バカに生真面目ぶってスカしてるよりよっぽどいい。
 彼はエクスリーが枕にしている自分の左腕を曲げ、その一房に触れようとした。
 気配に気づいたエクスリーと眼があったホワイトは、彼が微笑んでくれると思った。だが、エクスリーは真顔でその手を払い、再び瞼を下ろした。
 そうだった。
 こいつが壊れるわけがない。ましてこのオレがこいつを壊せるはずもないんだった。
 本来なら嘆くべき発見だが、バド・ホワイトはどこか安堵している自分を奇妙に思い、笑ってしまった。

*  *  *  *  *  *  *  *
 
 「行くのか?」

 上衣に腕を通しているエクスリーの肩が、夜目でもはっきりと上がるのがわかった。
 動作を続けられない背中を眺め、ホワイトは少し不機嫌な自分を訝る。眠っている間に出ていこうとしたエクスリーが気に入らない、彼はそれに気づいた。
 オレを出張ホストか何かみたいに思ってるんなら、だが一体なにほどの覚悟があるのか、ホワイトに相応の機転があるわけでもない。

 「…リンに……よろしく…」

 こちらを見ずエクスリーは応える。
 瞬間カッとして起き上がるホワイトは、彼の肩を掴んでこちらを向かせた。
 乱れ髪のまま、勤務中の服装に戻ったエクスリーは不条理な数式のようで、どこかで会ったがそれがどこだったかまるで思い出せない初見者に見せている。
 彼は眼を合わせようとせず、床面へ視線を投げている。

 「今オレがリンの話をしたがってるように見えるか?」
 「…そうじゃない…頼むバド、手を離…」
 「誰にもオレを便利な男妾みたいにゃ扱わせねぇぜ」
 「やめろっ、バド・ホワイト! ぼくの肩から手をどけないかっ!」

 戦慄いているのはエクスリーの拳らしい。
 ホワイトは聞き慣れた怒声より、それを胡乱に思った。この強制的な拒絶は自分に向けられたというより、受難者自身が雑念を篩うための自己暗示に近い気もする。
 ここまでこいつを抑圧させる理由は、全体どんな怪物だ?
 独りの部屋で震えながらそれに耐える少年が見えた。
 きっとそうされる以上にエクスリーを貶めることもないと知るホワイトは、面には露もその片鱗を見せず、束の間の情人を憐れむ。

 「…われわれは…恋人なんかじゃない」

 なれない、がエクスリーの本心だろう。
 彼が自分を見るまで、ホワイトは口を閉ざしている。

 「…手の届くところにいないからって簡単にダメになるわけにいかない…誰のことだかわかるだろう?」
 「あぁ、またオレに無期限の仮釈放なんてありがたい温情処置してくれる刑事部長さんのことだろ?」
 「…バド……頼むから…」
 「わかってる、いいんだ。もしかしたらって思っただけだからな。おめでたいだろ、笑えばいい」

 ホワイトは、過日のエクスリーの分身のような少年のお告げに導かれた経緯を話そうとしたがやめた。機先を制され二番手に甘んじるには、彼はあまりに率直過ぎた。
 傍らにエクスリーがいる現実を、ホワイトはただ単に歓んでいたからだ。若き野心家の仮面をつけながら断崖を往くこの青年が、無駄に物事を厄介にしていても、自分がそれを解してやることはできないことも知っていた。
 なんてバカだ、オレたちは。ようやく会えてそうと気づくんだから。
 ホワイトはそこで掴んでいたエクスリーの細い肩を離してやる。沈黙の中で、そこはまだ枷に縛められるようにしばらく不動を保っていた。

 「これだけは信じてくれ、バド。ぼくは君がさっき言ったようになんて微塵も…」
 「シィーッ。忘れちまいな、ふざけただけだ。たった今オレにとりついてた小悪魔はでてってくれた、二度と言わねぇから安心しろ」

 少し芝居がってるが、片目を瞑りながら茶化すホワイトに、エクスリーは一瞬頬を緩めそうになる。それでも次には手綱を引き締め、退室意志を示していた。

 「…君が起きないと思っていたから…どう言えばいいのか……」
 「じゃあな、エド。あんまりかわいいデビィいじめんなよ」

 決まり悪気に背を向けるエクスリー。

 「怒るかもしれんが、エクスリー部長よりオレは今のお前が好きだ。これぐらいいいだろう?」

 呆れるように首を竦め、エクスリーは一旦顎を落とす。とはいえその申請供述がたまらなく嬉しいことまで偽りたくなかった。微笑むぐらいは許されないだろうか? エクスリーはそれを自身へ認め、振り返る。
 だがそこでは、再びベッドの上で丸くなるバド・ホワイトが、微かな寝息を洩らすだけだった。
 かつての腕利き刑事の援護は驚くに価しない。思わず嘆息も零れる見事な手際を否定できないけれど。

 「…一つ借りができたってわけか…でも礼はしない…」

 そう呟き、彼は部屋をあとにする。
 安らかで温かいベッドを彼方に仰ぎ、酷薄な天使たちの住む混沌と膨張を繰り返す街へ。
 かつてこの国で一度も慣習化しなかった秩序統制を一身に担わされ、寸分の狂いなき生けるマイクロチップとして期待される、エドマンド・エクスリーへ還るために。

"The love that dare not speak its name."
           − Alfred Douglas

                 FIN

謝辞:これを書くインスピレーションを与えてくれたモナ女史、迷惑も省みず突然送りつけた今作に対し適確な批評をして頂いた上HPに収容してくだすったスラッシュさまへ心から感謝いたします。ありがとうございました!

注記:モナ女史の名作『忌まわしい記憶を消せ』の一部設定を踏まえお読みください。ですが決して続きではありませんのでご了承ください。

フロントページに戻る