UNDECEIVERS
by スギオメル


 い争う声がする。

 というよりは一方的な叱責が正しい。
 視界はおぼろで、輪郭にいくにつれぼやけて見える。
 驟雨のうちつける窓みたいだ。
 怒鳴り声が覗き込む。
 明らかな緊張で画面は硬直。
 怒りで赤らんでいたはずの顔、それがチェシャ猫みたいにうす気味悪く、一つニタリ。
 豹変ですらない、まるで別人。
 視界が微かに左右へ揺れる。
 満足したのか目尻は一層下がり、どうにもミスマッチな慈悲深い顔ができる。
 それが離れるにつれ画面も上昇すると、また奇妙な歪みに覆われる。
 誰かを酷く罵っている。
 それだけじゃない。
 甲高い悲鳴に、何かの倒れる音。
 上半身はソファに隠れ見えないが、画面では見慣れた白いハイヒールが爪先にひっかかって揺れている。
 障害物を越え画面が移動すると、自分の目が信じられず、頬へついた指痕に掌を強く当てている女のひとがいる。目には怒りと涙、そしてこれらを上回る怯えも湛えながら。
 それもやがては消える。
 浮力で画面は再び上へ。ガラス張りのリフトみたいだ。
 観覧車の天辺にくると無闇に有頂天になれるが、あれとどこか似ている。すぐ側にさっきの顔を見つけるまでのお話だけど。
 女のひとを倒した顔。怖がらせている顔。怖がるべき顔。
 これは『怖い顔』だ。
 どういうわけか、顔は依然微笑んでいる。
 クリスマスの朝、望み通りの箱をツリーの下で見つけた子は、そんな顔をするかもしれない。

 「お〜よしよし、もう心配ないぞ。ついててやれなかったオレが悪かった。だからもう泣くのはやめるんだ、なぁ、エディ?」

 優しく頭を撫でる大きな掌、頬へのキス。
 『エディ』は『ママ』がちょっと目を離した隙に、近寄っちゃダメよ、と言われているバスルームを探検して転び、おでこに小さな青痣をつくって泣いているところを、『パパ』に見つかった。
 でも『エディ』は痛くって泣いていた訳じゃなかった。早く見つけてほしいのと、『ママ』の長電話からいい加減歓心を自分へ戻したかったからだ。幼児がしばしばそうする、無為の習性で。
 こんなちょっとした策略は、成功以上の結果を齎らす。
 現れたのは彼の望んだ優しい『ママ』じゃなくて、『ママ』の顔を迷うことなく打つことのできる『パパ』だったから。
 『パパ』に抱き上げられた『エディ』は、『ママ』のためにも早く泣き止まなければと思っているのに、彼が今は怖い仮面を隠しているだけと知っているから、しゃくりあげを上手にコントロールできない。
 返って不審な甘ったるい猫撫で声で、『エディ』を宥める『パパ』。

 「いいか、今度エディに怪我させてみろ。後悔してもしたりねぇ目に合わせてやるからなっ!」

 ……怪我?
 それで『エディ』は、自分のおでこから消えかけた疼痛をやっと思い出す。
 そう、そんなものが怪我の部類に入ったためしなど、有史以来あり得ない。
 ともあれ呪文は絶大で、驚いた『エディ』は涙はおろか呼吸まで停めてしまう。
 『エディ』は『パパ』の輝ける星で、『エディ』は『パパ』の愛児であり、『エディ』は『パパ』の天使だった。
 『エディ』の方ではその何者でもありえなかったけれど。
 泣いていた愚かな子、彼はぼく、エドマンド・エクスリー。

*  *  *

 壁へ叩きつけられる身体。鈍重な音が尋問室へ響く。
 まだ不遜を知らぬ黒人少年の目は恐れで見開かれ、ジーンズ前部が失禁による黒い染みで濡れていた。
 そこでバド・ホワイトが攻撃を止めたかというとそうでもなく、彼は32口径をホルスターから引き抜き、被疑者の喉へ押し込んで、撃鉄の上下を繰り返す。
 銃弾が入っていないからできることだ。だが相手に気づかれなければこの演出は見事な効果を生む。

 「どこだ? えぇ? 女をどこやった? 無事か? それとも殺ったか? 黙ってねぇで何とか言わねぇか、この野郎っ!」

 気の毒に。

 銃口を銜えさせられながら、何か話せと言われ可能な者などいるものか。
 しかもそれを強要している者が命じているのだから。
 同室内にいる者と、ミラー越しから見ている者で、眉を顰める者がいないわけでもない。
 だが大方ホワイトの暴挙は有能と同義にとられ、前述者にすら必要悪として認容される行状に分類されている。彼を支持する者には軽減される労務を喜び、度に拠出される賞与的休息に甘んじる怠惰な輩さえいた。
 エドマンド・エクスリーは、それら同僚たちからは多少かけ離れた感慨で、目前に展開されるシーンを見ている。
 立場上は言うまでもなく、道義の上からも、彼にはそれを看過してはならない堅固な姿勢が望まれる。
 それなのに、彼は自身を木に化えたダフネでも真似たか、両足が大地へ根ざしたようにそこを動かなかった。
 概ね他視は彼の不動を憶病と解し、大卒の素人青二才といった既存評価をより高めてしまう。
 実はエクスリーにとって、その判断はとても好都合だ。
 周囲の者はまだ見極めていないが、訓練で培われた彼の抑止力はこの時も十分発揮されていた。微かに翳ったように見える目元が周囲へ不快ととられた以外は、感情を面へ著す失錯には至らなかった。
 そう言ってしまうのはあまりに無思慮過ぎて憚かられもするが、実際エクスリーはある種の脳内麻薬が夥しく分泌されるのを意識下に追いやり、バド・ホワイトを見ていた。
 生得権でもあるかのように暴力を行使する男を、陶然と、恍惚と、エドマンド・エクスリーは見ている。

*  *  *

 「よおぉ、やっと『出所』ってわけか、エド。総代やったって? プルーのヤツ、そういや自慢してたな」
 「シィーっ! やめろよ、ボブ。父さん戻ってる?」

 人差し指を鼻先に押しつけ、エドマンドは父の同僚を窘めてから声を落とす。
 努力空しく、周囲から喝采と野卑にも響く口笛がすかさず飛んでくる。
 署内に入る直前、カレッジキャップとローヴを取ってもこの様だ。彼は苦笑し諦め、見知った警官や刑事たちから警察学校を卒業した祝福を受けた。
 屈強な大人の男たちにもみくちゃにされ、新調したばかりのオクスフォードジャケットは早くもくたびれ始めている。

 「おいおい、お前らプルーに殺されたくなかったらその辺でやめとけ。なんてったってここにいるどいつよりも早く幹部席がリザーブ済みってぇゲーリック級の大型ルーキーなんだからな。ほれほれ、庶民はとっととその足で稼いでこい。GO GO GO!」

 新たに巻き起こるブーイングもほどなく終息し、署内は再び雑然とした平常へ戻る。
 父の元パートナー=ロバート・ロスコーは、灰色のもじゃもじゃ頭を振りかざし、エドマンドに笑いかけた。あと三月で年金取得資格者となり任期満了除隊する老兵の大男は、彼を庇うよう肩へ腕を回し、近くの椅子へ座らせる。

 「ボブ、間違ってもらっちゃ困るけど、ぼくは……」
 「わかってらぁな。幹部じゃなくって現場勤めしてぇんだったな?」

 同意の代わりに肩を竦めるエドマンド。

 「だが親父さんはそう思っちゃいね…」
 「知ってるさ!」

 つい叫んでしまった声に、通りがかったタイピストが怪訝に彼を見た。ポーレット・ゴダード似の勝ち気そうな注視に、エドマンドは顔を赤らめ俯いてしまう。
 ロスコーはそんな同僚の息子を見て、好々爺らしい微笑を零さずにいられない。

 「なぁ、エド。プルーは何もお前を甘やかそうってんじゃねぇんだ。大体くそったれな上の連中なんざウジ虫野郎って始終言ってるヤツが、わざわざてめぇの息子同じくしようなんて思うわきゃねえだろう?」

 エドマンドは聞こえないフリもできず、かといって同意したくもなかったので、綻びでも見つけたように上着の裾を指先で擦ってみた。ばかばかしくなってすぐに止め、天井へぐるりと視線を回してから相手に向き直ったけれど。

 「おめぇにゃわかるまいが、親ってのはパットン将軍だろうがハワード・ヒューズだろうが、子どもの前では大バカ野郎になれるしょうもねぇ生き物なのさ。あいつはいい刑事だが、あの通り要領悪ぃときてる。本当なら今頃部長にでもなってふんぞり返ってらぁ。世の親父全部がてめぇ見習って欲しいって思うのは知ってるな?」

 唇を噛みしめ、エドマンドは上目で一つ頷いて見せた。

 「ところがプルーはちっとばかし違ったんだなぁ」
 「もういいよ、ボブ……」
 「いいから聞け。お前にゃ自分より偉くなって欲しいのさ。幸いお前さんはプルーの期待以上に育った。ヤツができなかったことをやれるかもしれんお前に望むぐらい罰当たるまい? あの刑事バカの唯一の道楽だ。これが逆ならオレもんなこた言わねぇさ、なぁ?」

 エドマンドはもう答えなかった。実際どこにも隙がなく、反論全てが机上論理で看破されることは目に見えていた。
 彼は逡巡を装ってから、思い出したように立ち上がる。

 「…水…飲んでくる……」
 「あぁ…なぁ、プルーは本当に今日の式典行けなくって悔しがってたんだ。今朝方ノミ屋どもの一斉検挙さえなかったらなぁ……」

 ロスコーはまだ何か言っているようだったが、エドマンドには初めの方も水中会話のようで不明瞭にしか響かなかった。
 大して飲みたくもなかったので水飲みでうがいをし、エドマンドは廊下奥へと続く留置場へ目を向ける。口の端を手の甲で拭いながら、つい足がその方向へと向かうのを止められなかった。
 両サイドの『檻』の中にはまばらながらも住人がいる。恐る恐る歩を進めるエドマンドへ一様に険しい目を向け、口の中で罵声を吐く手合いもいる。
 向けられる謂われ無き悪意の洗礼を浴びて、エドマンドは常々感じている軽侮と憐憫をない交ぜた、やり場のない不快を持て余した。
 この選民意識が、彼の父と決定的に異なる質である。
 自覚あるエドマンドにとって、犯罪者と違和感なくつき合える父は偉大であると共に、得体が知れなかった。だから彼は父の望まない者、つまり父を目指したいのだ。
 それも、筋骨隆々の服装倒錯者が向ける下品なポーズ一つで、早くも萎えかける。ホラー一歩手前の恐ろし気な化粧の施された美しいとは世辞でも言い難い大男が、泥酔勢いではみ出た口紅間から舌を突き出してそれを厭らしく回し、同じく突きつける中指一本をこちらへ向け連動させている。
 エドマンドは軽い目眩を覚え、足早にその前を去った。
 ふと、さらに奥まった個室から物音が洩れ聞こえた。先はもう尋問室だけだ。
 彼は野性の呼びかけに従って、足音を忍ばせドア前で立ち止まる。部屋は果たしてその職務に忠実で使用中だ。
 エドマンドは小さな覗き窓へ目を近付ける。
 いかにも凶悪そうな顔をしたヒスパニック系の男が、厳しい顔をこちらに向けている。手前の人物は背中しか見えない。普通なら最低でももう一人警官か記録係が常駐するはずだが、室内はどうやらマンツーマンのようだ。
 そんな規約違反ができるのは、経験と自信に培われたプレストン・エクスリー以外あり得なかった。
 エドマンドには彼らの会話までは聞こえなかったが、この静寂が嵐の前の静けさであることは容易に想像できた。
 音量を最小に絞ったTV画面を見るような奇妙な画は突然破壊され、悉くその均衡を放棄する。
 手前の男は、辛うじて置かれたスティール机を脇へ退ける。直後に伸びた太い腕が容疑者の胸ぐらへかかり、まるでマネキンでも扱うように左へ放る。
 騒音につられ、エドマンドは自分が投げつけられたように後方へ飛び退いた。だが再びゆっくりと視線を戻す。これは単なる好奇心じゃない、後学のために見てるんだ、と訳もなく自罰感を募らせる行為への正当性を復唱しながら。
 室内はそれで終わったのではなく、始まりに過ぎなかった。
 常連らしい余裕から一転、若者はにわかに怯み、自分よりも上背のない刑事へ必死で慈悲を乞うている。一言口にするごと横っ面を張られているにも拘わらず。
 容疑者の顔面が変色しかけるのを見て、賢明なるベテラン刑事は次にターゲットの足元を掬い、床へ転がす。地均しでもする横柄な足使いで、鳩尾辺りを蹴り上げる。
 何度も何度も、その上さも楽し気に。
 激しく打ちつける鼓動が自分のものであることを、エドマンドはその頃になってようやく気づいた。おぼつかない重心が後ろへ倒れそうになるのを両足は辛うじて制し、こみ上げる嘔吐感を堪えその場から逃げ出す。
 個室へ駆け込むのが間に合わなかったので、手洗い場へ吐瀉物をぶちまけるエドマンド。
 蛇口を捻って顔面へ冷たい水を叩きつけながら、彼は呪詛を呟き自身を悪罵した。

 「…弱虫…弱虫…弱虫…そんなんじゃ…ダメなのに…バカだ……お前は…最低だ…」

 この焦燥感は、自己否定の招いた弾劾ばかりではない。
 我が子には決して見せなかった父の正体 −暴力的でおよそ理想の父親像とはほど遠い− に戦慄は禁じ得ない。しかし間断ない苛酷な苦痛を、現存する最後の秘境=脳内組織が和らげるべく合法薬物を生産するように、感傷的なまでの快美感をも否定できなかった。
 不幸にも、こればかりは彼の聡明がピューリタン教義に倣い、健全なる社会が望むだろう正しい裁断を採択するには至らなかった。
 エドマンドの昂揚は、彼自身を勃ち上がらせているのも気づかせないほど、高ぶっていたのだから。

*  *  *

 「コンコンコン。栄えある総代を立派に勤めあげたミスタ・エディ・エクスリーはこちらですかな?」
 「やめてよ、父さん。それにもうエディって呼ばない約束だろ?」

 息子の頭部を軽くノックして戯けるプレストン・エクスリーは、4時間ぶりの我が子に会えたのが心から嬉しいという本心を偽ることなく破顔する。
 警察署のゲート前階段に蹲っていたエドマンドを見つけた父は、同行の同僚を瞬時で忘れ去った。背丈は自分と同じくらいだが、プレストンは恰幅が良かった。肩を並べると息子の華奢が嫌でも目につく。
 弁護士か学者タイプの息子に、かといって自発以外のウェイトトレーニングを強いたことは一度もない。その暇があるんなら刑法条例の一文でも憶えろ、が父の口癖だったから。

 「ハッハッハッ、いやぁ、そうだったっけなぁ? 最近めっきりもの覚え悪くなってなぁ。こないだも挙動不審でひっぱったネズミ野郎がお前とおんなじクラスだったなんぞと宣いやがってふざけんなって言ってやったよ。オレの息子をてめぇみてぇなクズと一緒にすんなってなぁ。までもあとで思い出したら、そいやんな名前のヤツ、何回かうち来たことあったかもなぁ…」

 エドマンドは磊落な父の代わりに周囲を気遣って、足早にその場から去ろうとする。だが、プレストンはこの武勇伝を発表しないことには面目さえ潰れ兼ねないとでも思っているらしく、促す努力に必死の息子が先を急がせているとしか解釈しなかった。
 無頼で飾らない父。
 勿論エドマンドは彼を愛している。
 父が、父という役割以上に自分を愛しているほどではないにせよ、世のすれた同世代の子どもが感じる疎ましさを、微塵も彼に対し持たない自分は、きっと誇れるに違いないとも思っている。
 だがエドマンドは、笑顔しか見せてくれない父へ、いつしか疎んじる以上に背徳的な感情を抱くようになっていた。
 事象の両面性は白日に曝されてこそ真価を所有できる。
 何のことはない、息子は単に普段の父が必ずしも全てではないということを、必然的に知ってしまったに過ぎぬ。
 かといって、一体自分は何を望んでいるというのだろう?
 自分が長じるにつれ母に無体を働くことはなくなったけれど、彼が打たれたり何らかの叱責対象になることは決してなかった。
 おそらく、自分を掌中の珠扱いし、それをまんざら悪くないというより居心地良く感じているに違いない、と父が考えているかもしれないことが、エドマンドをどうしようもない閉塞感で満たすのである。
 彼はそんなふうに愛されたいのではない。
 それなのに、この一方的な情愛の甘受を是認させられたまま、改善の機会さえ与えられず、ふいに父は逝ってしまう。
 行き場を失った彼の交錯する感情は、届きそうで届かない上空10フィート付近へ宙吊りにされる。
 そして今エドマンド・エクスリーは、賢明なら否定すべき正体不明の動揺と対峙している。
 奇しくも同眷属にあるバド・ホワイトへ、否応も重ねあわせたい衝動に駆られながら。
 全体どんな神の気紛れだろう?

 『彼』はすべて持っている。
 いや、ぼくにないものばかり持っている。
 『彼』のもの。
 不正を憎む気持ち? ぼくにだってある。それを見過ごす方が、ときどきめんどくさいことがあるから。声高に言うことか?
 弱者への暴力を許せない? 当たり前過ぎるじゃないか。腕力を自慢できる石器時代なんて疾うに終わったと思ってたけど?
 目上の者を敬う気持ち? 例えばディック・ステンズランドみたいなゴロツキ?
 ハッ! 冗談じゃない!
 ゴロツキは所詮ゴロツキ、憐れみの対象にすらなりはしない。
 あんなヤツを恩給取得者にするなんて市井に対する冒涜もいいとこさ。本当の意味での社会的弱者を蔑みながら、他に使い道がないばっかりに、あいつは持ち金全部飲みしろと賭博にあてるに決まってる。
 だからぼくは最大限に有効利用してやった。
 悪徳警官には実に相応しい末路じゃないか。無能を囲つほど、システムが爛れていない証明は果たされたんだから。その後どうなろうと、ぼくの知ったことじゃない。
 殉教者?
 マットやジョンに対してまた随分だいそれたもの言いだ。あいつはせいぜいソドムとゴモラの住人としてならバイブルへの登録も許されるだろう、違うか?
 徐々に射たれ死んだバズのお仲間になんか誰がするもんか!
 それから。
 もう一人のマリアの末裔=リン・ブラッケン?
 哀しい身の上に見合った美貌、計算高さと賢明の違いを知っている賢い女。
 蓮っぱな不良娘と良家の子女の区別なく、女に備わった浅薄とはた迷惑な自己愛とは彼岸にいる、いわゆる上等の女。
 『彼』がもっと無邪気なら、きっと真っ先に所有の幸運を申告するはず。
 だからぼくは彼女を抱いた。
 確かに彼女は悪くなかった。
 『彼』もその身を深く沈めたと思うとなおさらだった。
 『彼』の所有物を一時でも手に入れたことは、とても気分良かった。
 でもそれだけさ。
 だからぼくは窓辺にはりつくドブネズミ=シド・ハジェンスを見て、祝儀を弾んでやりたいとさえ思った。
 だってぼくが欲しいのは彼女じゃないんだ。
 ぼくが羨ましくってしかたないもの、それは…。

*  *  *

 苦痛や恐怖も凌いでしまう、目の眩む怒り。
 バド・ホワイトはしばしばその激烈な感情と親密になっていた。
 虐げられる他者のために、正義感というだけではあまりに軽々しいホワイトの義憤は、手段の正当性を省みないまま発現し、庇護を望んだ彼らに与えるかもしれない不穏さえ厭わず爆発した。
 だが今回は勝手が少しばかり違っている。
 彼は今、彼個人にふりかかった信じたくない事実を知った。
 理解の及ばない理不尽に侵蝕される。この不当な偶発事故に、ホワイトは非常な憤りを憶えずにいなかった。
 さらに彼を容赦なく苛んでいるのは、リンを嬲り者扱いされたことよりも、彼女に自分を守るためにしたことと言われ、それに対する自身の反応である。
 他の誰がそれを許そうと決して自分へ許すことはなかった、弱者への発憤。
 頑なに戒めることで、彼はどうにか平静を保っていられたのに。
 放心してよろめいたリンに見つめられ、それで覚醒したホワイトは同じく後方へ後ずさった。
 自分が信じられなかった。
 久しぶりの夕立は街に積もった粉塵を浄化していた。彼の上に降る雨は、彼を嘲笑するように陽気なロンドを舞っていた。これが劇物であればいい。そうすればあいつとおんなじ畜生に成り下がったこのオレを、骨の髄まで溶かしてくれるのに。

 「エクスリーはどこだっ!」
 「よぉバドぉ、どした、おっかない面し…」

 署内に戻って一番最初に目に入った不幸な犠牲者が誰かなど、ホワイトは構わなかった。
 くだんの友好を示した同僚はいきなり彼に胸ぐらを掴まれ、後方のキャビネットに押しつけられる。背骨を圧する取っ手は和らぐどころかさらに食い込んでいく。

 「エ・ク・ス・リー・は・ど・こ・だ?」

 辛うじて放さなかったマグから滴るコーヒーへ目を落とし、同僚は無言で右手人差し指を捜査資料閲覧室へ向けた。途端解放される彼はホッと胸を撫で下ろし、礼も告げずに立ち去る者を見送る。が、閉まったドアが再び開き、戻ってきたホワイトにギョッとした。緊張で目を見開き硬直する襟元を、ホワイトは芝居の追従者のように無表情のまま正し、今度は二度と戻らなかった。

 「…あ、ありがとさん……」

 ホワイトに届いたかどうか。
 ともあれ彼は、在りし日のバイソンに劣らず、猛然と目標を目指す。
 疾うに就業時間を過ぎた署内廊下には、彼の大股を物語る足音だけが響く。
 勿論ノックなどせず、ホワイトは暗い照明の灯る小部屋のドアを派手に開け放った。
 夥しいファイルに囲まれたエクスリーが書類群から顔を上げ、眼鏡を外し終えた時、ホワイトは丁度彼の目前に辿りついた。視界が狭められている上、認識能力も鈍化しているホワイトには、悠長というより優雅と言いたくなるその動作さえ憎悪対象だった。

 「これを見てくれ、バ…」

 最後まで言わせず、ホワイトはエクスリーへカウンターを喰らわせる。間髪入れず鳩尾へ一発、屈んだ姿勢をこれ幸いとアッパーを見舞う。
 もとより秩序をなくしていた報告書の墓場は砂上の楼閣のごとく崩れ、快適とは言い難いがエクスリーのためのクッションにはなってくれた。
 騒音が収まる頃、室内にはホワイトの荒げる吸排だけが残った。弁明を試みるがエクスリーは断念した。自分が立ち上がるのを待っていることはわかるが、それが話し合いのためでなくさらなる攻撃のためであることは、無意識に踏みつけられ原型を留めぬプラスチック製の屑入れが証している。
 いずれにせよ、第三者である全能の時間に、しばらくこの場を委ねる必要があった。
 接触悪いらしい電灯が耳障りなビープ音を奏でる。真空管の両端が古びて黒ずんでいた。近いうちに煩わしい点滅が始まるだろう。あまり重要視されない部屋とはいえ、この暗さでは作業能率の向上など願うべくもない……。

 肉食獣だったホワイトの呼吸は、やっと本来のホモサピエンスへ戻った。激情が収まったわけでは無論ないが。

 「…何か言うことはあるか?」

 エクスリーは彼をちらと見上げ、大義そうに立ち上がる。下腹へ響く鈍痛が、一瞬足元をふらつかせた。

 「いや。きっとその権利はぼくにない。そっくりお返しするよ」

 床の惨状に目を逸らすが、そのせいで整頓されスペースのできた机を見て微かに笑い、エクスリーは端へ寄り掛かる。放射しないだけの怒りをたぎらせねめつけるホワイトを意識してのことだ。

 「また点数稼ぎってわけか。ご苦労なことだな」

 エクスリーは本当は笑いたいほどだった。ホワイトの反応は、彼の期待以上だったからだ。彼はキャビネットの足元へ飛んでヒビの入っている眼鏡を見つけ、新調は経費でおとせるだろうかなぞと考える。神妙に見せている低頭に反し、エクスリーはホワイトの言い分を聞く気などまるでなかった。
 ホワイトには、戦場における若い兵士たちが抱くような同胞意識では、決して接して欲しくなかったから。

 「で? 本日の新たな成果を拝聴させて頂こうか?」
 「それだけど…いや、やっぱり君は知らない方がいい」

 今頃になって、拳を受けた箇所に熱が帯び始めた。無意識に患部へ掌を当て、激昂している相手に気づかれることはないという確信のもと、エクスリーはそこを愛おし気にさする。言動や動作全てが常に勿体つけているとしか思えないホワイトには、予想を遥かに上回る挑発としての効用を生んでいた。

 「黙りな。権利云々ぬかしやがったのはお前だってこと忘れたか?」

 エクスリーは脇へ溜息を一つ吐き出し、さもこれは自分が望まないことだと言いた気に表情を曇らせる。

 「ぼくを信じなくて結構だけど、報告書の記録ならどうだ? ステンズランドはクロだよ。彼がナイトアウルにいたのは偶然じゃない。君は信じたくないだろうけど、彼も…不正に拘わっていたんだ」

 悪徳、と言いかけ不正に言い直したエクスリーは、申し訳なさそうにホワイトを見る。こんなこと言うつもりじゃなかった、実に遺憾だ、という態度を装いながら。
 ホワイトの拳が振戦を始める。
 エクスリーは密やかな至福がその身を巡って着床し、やがて発火するのを感じた。

 「どこだったかな、さっきまで見ていたのに彼の署名が…」

 「うるせぇっ! 黙って聞いてりゃいい気になりやがって!」
 「待ってくれよ。ぼくだって死者を侮辱したくはない。ただ真実を見つけるのがぼくらの義務だろう? 違うのか?」

 理路整然とするエクスリーの言説に、ホワイトは一枚のしわくちゃな紙片で報いる。
 この静謐はどこまでも滑稽だった。実際エクスリーにとって、自分とリン・ブラッケンが冷たい抱擁を交わす図など、とある市議主催の乱交パーティを暴露するタブロイド記事以上につまらないものだった。

 「これが真実だ。どうした、兄弟とか良く似た他人とか言って笑わせてくれないのか?」
 「…目に見えるものしか信じない君に言い訳しようとは思わないよ」

 それこそ時間の無駄だ、煮るなり焼くなり好きにするがいい。
 この辺りまでならエクスリーのシナリオも旨く書けてはいた。
 本当なら、リンがその身についた手練手管を弄し、どれほど巧妙に自分を誘惑してきたか、腕力では抗えぬ生理に屈服したのがどれほど屈辱だったか、そういった捏造を詳細に話すつもりだった。
 それを聞いてわななくホワイトの落とした肩に手をかけ、互いの憐憫を分かち合えれば、エクスリーのめくるめく初舞台は幕を下ろすはずだった。

 しかし、ミイラ取りはミイラに。
 見落とされたエクスリーの誤算。
 それは父の亡霊に取り憑かれていた自分に、ずっと目を背けていたこと。

 「だろうよ。どうせオレみたいなサルなんぞにお前さんのお利口な口車並べたてたって巧く丸め込まれるのがオチだからな」
 「そうじゃない! どう言ったら君を見下してるみたいに思われないで済むんだ……」
 「気にすんな、オレはオレのやり方でケリつけてやる。それが正しかろうが間違ってようが関係ねぇ。お前さんの信じてる法律とやらは、このオレにとって尻拭いの役にも立ちゃしねぇ代物だ」

 ホワイトは静かにそう告げた。判決文を朗唱する判事劣らぬ高潔を漂わせていた。まるで相手を思いやろうともしない、非情な概要にも拘わらず。
 随分礼儀に適った作法だ、エクスリーは思いながら、近づいてくる男を見ていた。鷹揚は一瞬で消え去り、彼は逼迫した自身の立場に突然気づく。
 この目はどこかで見たことがあった。自らの法を冒す概念すら持たぬサバンナのけものたちが、露ほどの疑いもなく忠実に継承し続けている弱肉強食。あるいは、ローティーンの頃連れられたロングアイランドの狩場で、珍しいぐらい活気を宿した父の瞳……。

 「さっきから君の力づくに無抵抗のぼくは、もう十分贖罪してると思わないのか?」
 「とんでもねぇ心得違いだな、エクスリー。お前さんの大好きな聖書とやらにもたまにいいことが書いてある。知ってるな? 目には目を、だ。お前もリンと同じメに遭っていいんじゃねぇのか?」

 「……それはどういう…」
 「正統的なるエド・エクスリーへの権利を行使してやるってのさ。フン、鏡見れなくてお生憎だ。顔に書いてあるぜ」
 「…バド、何を言って……」
 「有罪、ってな」

 臨界まで溜め込んだ鋭気を瞬時に放出させ、ホワイトの拳が空を切る。
 先刻の裂傷からさらに裂け目が生じ、飛蚊症の錯覚に眩みながらエクスリーは再びファイルの寝床へ倒れた。彼の上へ、カートンに山と積まれた別の書類が降り注ぐ。

 「お前にファーストネームで呼ぶの許した憶えはねぇな、Huh?」

 灯りを遮断し、目前へゆっくり暗い顔を翳すホワイトがクローズアップされる。それでもまだエクスリーには状況が理解できなかった。何が起こっているんだろう?
 彼はまだ『恐怖』を自覚できない。もう遅すぎるぐらいだったが。
 それ以外に言い様があるなら教えて欲しい。傷ついた口腔内部から滴る血で濡れた口端を一舐めし、口づけに及んでいるホワイトを、エクスリーはまだ眺めるしかできない。
 やがて塞がれる呼吸は未知の恐慌を呼び起こす。見開いた目を何度も瞬きさせ、この信じがたい状況への打開策を巡らせるが、辛くも本能に従うようにできている脳はエクスリーの建て前に反旗を翻すだけだった。
 彼は差し込まれる舌に、知らず自身のを絡ませてしまう。
 押し戻そうと掴んでいたホワイトの腰部へかけられる両手は、その緊張を失って今はもう脱力した掌を添えるに留めている。
 呼吸は不規則な熱を帯び始める。
 肺の必要に迫られ、酸素補給に従う二人の舌同士が名残惜しげに細糸で結ばれるのを見て、エクスリーは思い出したように深呼吸した。グラスがなくて何よりだった。
 彼の安堵を読んだか、ホワイトは傍らへ手を伸ばし、エクスリーの眼鏡だったものを持ち上げ着けるよう促す。
 エクスリーは緩慢にかぶりを振り、これを拒否した。

 「見えてるか?」

 ホワイトの問いへ頷くエクスリー。

 「嘘つくなよ。悪い警部補さんだな」

 無理強いさせるホワイトにもう抗う術を持たないエクスリーは、少し涙で潤んだ瞳を都合よく思う。滲んだ視界は多少なりとも認識を曖昧にしてくれるからだ。
 拒む理由が別にあるのを完璧に忘れた相手を、ホワイトは満悦し眺める。だがそれも束の間、彼は奉仕したいのではないと気づいた。これは報復でなければならなかったのに。
 ホワイトは自分のネクタイを外し、束ねたエクスリーの両手首を縛め、頭上で固定させた。次に、逆側からの着脱にもたつきながら鰐皮のベルトを外し、細身の下肢を剥きだしにしてやる。
 外れる寸前だったフレームが振動でとうとうエクスリーの顔を滑り落ち、目立った頬骨を伝って書類束の隙間へ姿を消した。
 抵抗意欲無くした肢体を訝しむ、作業途上のホワイト。
 開ききった瞳孔で、あらぬ方角を見つめるエクスリー。
 自分にだけ見える天使と交信する、白昼夢にある子どもの顔だ。
 ホワイトは一瞬それに身震いしたが、馬鹿げた連想は早々に殺し、エクスリーへの刑を執行しはじめた。
 屠殺場にこだまする断末魔が、エクスリーの喉奥から洩れ聞こえる。明らかに、この結果を予測できなかった者の声だった。
 オレの知ったことか、ホワイトは腰を使い、ギシギシと背骨を軋らせるエクスリーの苦痛は忘れようと努め、あまりの窮屈ですぐにも暴発しないよう自らを戒めた。
 エクスリーの視覚は像を判別せず、辛うじて呼吸を止めずにいる程度しかなかった。ひくつく喉は、今では間断なく嗚咽するだけだ。息を止めようと吐きだそうと、上体を捻ろうと伸ばそうと、彼の受ける責苦を決して和らげてはくれない。
 ローマが栄華を極めた古代、必然的に権勢を誇った幾人かの単なる狂人皇帝は、一時の戯れに奴隷の体内へ灼けた鉄棒を入れた、というかつて暗がりで読んだ古書の供述を、エクスリーはぼんやり思い出している。想像もつかないおぞましさと、所詮無縁でいられる幸運だけ学べば良かったものを、あろうことか今自分は権力者の玩具と寸分違わぬ扱いを受けていた。
 痛みによる止めどない涙を流しているのも、彼は知らなかった。その万に一つぐらいなら、ホワイトも感じていたかもしれないが。

 「…泣け…もっとだ…てめぇが正しいと信じたことを…思い知れ……」

 ふと、滑らかになった注挿を不審に思い、ホワイトは繋がったままエクスリーの下肢を見やる。会陰部をゆっくりと、あまり馴染みない鮮血が滴っていく。
 息を詰まらせるホワイト。
 エクスリーは唇を噛み、啜り泣きを必死で堪えている。
 突然ホワイトは、怒りの導いた不条理が、いとも簡単に自分をも凌駕する畏怖に愕然とした。
 ……オレは…一体何してる?!
 世界全てががふいに凶悪な色を帯び、有機/無機の別なくあらゆる事象が敵に変わったように見えた。終生知る必要もなかったはずのこの惑いは、容易に彼を震撼させる。瞬間逃走の文字が目の前を掠める。だが、それをホワイトは潔しとしないのだ。自身に通じさえすればいい法則。霧散しかける集中軌道を戻し、彼はどうにか克服を念じた。
 するとどういうわけか、エクスリーをこのまま奪っても構わない気がした。さしものヤツも非を認めそう望んでる、それを証拠に何の抵抗もしねぇじゃねぇか、だからオレは悪くない、オレは間違っちゃいないんだ。ホワイトはなぜかそう思えたのだ。

 「…そんな風にしたからって…オレが赦すとでも思うのか? お前のおめでたさはまたエベレスト級だな」

 しかしエクスリーはもうホワイトの嘲罵など聞こえてはいなかった。朦朧とする意識と視界と、そして煉獄の業火を下肢へ纏った苦役は、悉くその理性を奪い尽くしていたから。
 彼はホワイトには決して聞こえぬほど小さく、しかし深遠なマントラのように、それを弛まず唱えていた。

 「…ゴ…メ……パ……ゆ……し…」

 直後再びエクスリーへ侵入したホワイトは、灯火にすだく蛾さながらにうるさくまといつく警告へは二度と耳を貸さず、遂情するまでエクスリーを犯すことを止めなかった。
 止めたくとも、もう遅すぎるのだ。

 死んだのか?
 涙の渇いた跡が辛うじて判別の役にたってくれるにもせよ、ぴくりともしないエクスリーは、検死済みのJOHN DOE氏でも屈指の無機的人工美を保持し、横たわっている。
 ホワイトの手の甲が、血の気ない頬の辺りへ恐る恐る伸びる。
 反射に従い鈍重ながら動きを見せる双眸。続いて閉じた瞼と共に、上半身が起こされる。
 予想外の灼熱でも察知したように離れるホワイトの手が、いま一度伸ばされる。
 ボタンの飛んだシャツを何とか直そうと試みるが、くたびれた開襟は痣の浮く鎖骨を隠す役にも立たなかった。
 ホワイトは周りを見渡し、脱ぎ捨てた自分の上着を拾い放ってやる。
 膝上へ落ちたそれを、眠れる獅子でも警戒するように凝視するエクスリー。それがどういった役割を望まれ存在しているものか、忘れてしまったようにも見える。
 一つ溜息をついて、ホワイトは膝元へ手を伸ばしてやる。
 それにエクスリーは最大巻き終えたゼンマイ仕掛けの人形じみる狂体を示し、脇へ飛び退く。キャビネットの隣りへ蹲り、窺うようにホワイトを見上げる。
 平然としながら実はたじろいでいるホワイトはしばらく仁王立ちしていたが、思いきって一歩前へ踏み出した。

 「…動くな…それ以上近寄らないでくれないか……頼むから…」

 エクスリーはそれだけ言うとだるそうに瞼を下ろした。

 「…エクスリー…オレは……」
 「……ご苦労さま…ホワイト巡査……君はもう帰った方がいい…」

 行ってくれ、今は何も言わず。
 あとは舌でも抜かれたように押し黙るエクスリーにとって、言葉は既に耳障りな喧騒に過ぎなかった。
 オレはここまで最低で居心地悪い思いをさせられるはずじゃなかった。まるで訳もなくヤツを傷つけたようなこの気分は、一体なんだっていうんだ!
 喉まで込み上がる正当な異議申し立ては、結局舌先に辿りつく前に噛み殺された。ホワイトは俯いて左右に首を振り、戸口へ向かう。
 ドアを閉める前もう一度奥へ視線を向けたが、エクスリーはまだ青ざめる顔をスティール壁に押しつけ、全身で彼を拒絶していた。
 渇いた音と共にドアは閉まり、靴音が次第に遠退いていく。
 ホワイトの素気なさがこれほど有り難かったこともない。
 閉じたエクスリーの瞼から、涙が一条零れ落ちる。直接冷気を感じて身を震わせ、投げ出した膝を曲げる。酷い有様になっている全身を隠したくて、無駄な気休めでも両肩を抱きしめながら、彼は新たな嗚咽を洩らし始めた。
 一体だれのために?
 父? それともホワイト?
 それとも愚かな自己過信への憐れみか?
 何でもすぐに分析したがる賢しさが忌々しかった。
 エクスリーはいつしか堪えることを止め、幼子のように咽び泣く。

 『思い知れ』

 バド・ホワイトは、彼を見事に貫いた。
 知らずに冒した過ちを、ある日突然鼻先へ突きつけられる者の悼み、羞恥。これは無知や懶惰の招いた純然たる罰だ。
 あるまじき思慕を投射し、父の面影を求める以上の愚行があるか? 誰かがその役を買って出てくれると願うのは、自然が最も遠ざけたがる罪深さでは?
 それを受け入れる契機を、ようやくエクスリーは手にしたのかもしれない。身体も心も傷まずにはいなかったけれど、早晩払った代価に感謝するだろう。ホワイトへ向き合うための、新たな布石として。
 だが今はまだ、打ち捨てられる少女のように独り蹲って泣くのが彼には相応しい。裁く側に立つ者にとって、これほど絶大で甘美な被害者意識を味わえる機会など、もうおいそれとはやってこないだろうから。

*  *  *

 バド・ホワイトへは勿論、望まない自分へなどお構いなしに、分け隔てなく朝日は彼の周回に忠実に姿を見せる。
 いっそひとおもいに手にかかった方が良かった。いくら仮面を着け慣れているからって、もう昨日のままでいられるわけもないのに。
 永遠に明日などこなければいい。
 膝頭を抱える腕が痛むほど締め付けるのも厭わず、エクスリーは外が白み始めるまでそこを動かなかった。
                                     FIN

謝辞:このSLASHのアイデアを考えられお話にすることを快く了承してくだすったスラッシュ君さまに感謝いたします。本当に、本当にありがとうございました! 正確な再現には至れませんで心苦しいのですが、今後とも精進に努めますので(特にMエド道)。

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