第9回

<アメリカ人と日本人のカップルの場合、必ず「受け」は日本人>
 
 (のっけから、すみません。でもそうなんです……)
 
 少女マンガには伝統的に「赤毛もの」というジャンルが存在するが、やおいものもまたしかりだ。同じ読むなら、背が高く、金髪で碧眼のオノコがよろしいというのが日本女性の心情というものだろう。

 が、ハリウッド映画に出てくる日本&日本描写がオカシイように、やっぱり日本人が書いたアメリカ人やアメリカが舞台のマンガも、アメリカ人にとっては変なのだろうか。そう質問したところ、

 「ステレオタイプなところはあるけど、頑張って書いてるなあって、微笑ましいくらいよ」

 「オカシイところもカワイイのよ〜、●●は(<=好きな男性美形キャラの名前が入る)」

 「え? 気になんないよ。確かに、NYPD(New York City Police department)が舞台の羅川真里茂の『ニューヨーク・ニューヨーク』や真東砂波『FAKE』は、ホモフォビア(ホモ嫌悪症)の最たるところであるNYPDではあり得ない!話だけど、私は、やおいにリアリティーなんか求めてないもん〜」

 「80年代ではまだエイズの原因が分かってなかったから、NYCのゲイシーンはもっと乱交気味なはずで、秋里和国の『TOMOI』はちょっと大人しすぎるかな。でもリチャードと友井の心の交流(ラブラブ)しか読まない私には関係ないわ」

 などと、聞いた私がバカでした的な答えしか返ってこない。

 「まあ、こんなオシャレなアメリカ人はいね〜よっていうのは多いけどね」(笑)

 というのはあるようだが(冬でも半袖のシャツとか着てしまう自然感の疎い?現実のアメリカ人は日本人に比べ、着る物には恐ろしいほど無頓着だ)……。

 
 舞台も登場人物もすべて外国・外国人というものもあるが、やおいものに妙に多いのが、
 「舞台はアメリカだが、人物はアメリカ人と日本人のホモカップル」という設定である。

 それぞれの国力の差と国民性に対するステレオタイプな見方が投影されているためか、アメリカ人はおしなべて、「勇気があって、力強く、言いたいことをはっきりと言い、ワイルドかつアグレッシブ」であり、日本人は「無心(何考えてるかよく分かんない)で、無口(聞き役)」だ。

 そして、ほとんどの場合、 

 日本人の男が「受け」

 なのである!

 「くうぅぅぅぅ、いくら戦争に負けたからって、『受け』とは何と国辱的なッ」と、愛国心溢れる日本男児のお叱りの声が聞こえてきそうだが、マンガをよくよく読んで見ると「必ずしも受け、弱からず」というのが、実は描かれていたりするもんだから、日米間の力関係は結構複雑だ。愛憎(戦争で負けたおかげで強引に民主化してもらった恩があったり、なんだかんだ言ってアメリカ文化が好きだったりする)が入り混じっているがゆえに……。 

 例えば、吉田秋生の不朽の名作『BANANA FISH』(桁外れの知能指数と殺傷能力を持つ美少年アッシュとごく普通の日本人・英二の友情物語)の場合、どうみても一見、アッシュは万能で、全ての点で英二よりも「強い男」のように見える。が、しばしばアッシュは英二の純粋さに救われ、英二の前だけでは、自分の弱さ、脆さをさらけ出すことができる。

 津田守の『BIG GAME』(強いブライアンと繊細な環)も、犬養陵一郎『最高の恋人』(普通の日本人の商社マンオヤジと加アイスホッケーのスター選手)の場合も、社会的評価ではまるで釣り合わないのだが、2人は互いを必要する関係を築いている。

 つまり、どの作品でも、

「一見ナイーブ(=愚か)にも見える純粋さ・感受性の高さ・人知を超えた第6感」を日本人は持っていて、「いくら努力の結果人並みはずれた能力を持とうと、所詮、人間の力などたかが知れている」アメリカ人より、

「極度の極限状態ではしぶとい」

ということが描かれているのである。

そういった2人の男性の力関係というのは、日本人同士のホモカップルでも頻繁に描かれている。

山岸涼子の『日出処の天子』と岡野玲子の『陰陽師』の2作品は、しばしば男性キャラの力関係の類似点を指摘される作品だが、社会的に優れた評価をされているツッコミの厩戸皇子/安倍晴明はそれぞれボケの蘇我毛人/源博雅にだけは心を許し、ボケが持つ不思議な力に対して、内心妬み(本人にその自覚がないのがツッコミをイライラさせる)に近い愛情を感じてしまうのである。

この日本のやおい漫画特有の価値観、
「純粋で一見、無力なボーッとした男(自分では意識していないが神秘的な能力があったりする)のほうが世間的には超高い評価を受けている(多くの場合狡猾な)男より、エラい」

というのが、アメリカ人には極めて「日本的」として捉えられ、時として「納得いかない!」場合があるらしい。

「日本のヒーローって勝ち目が無いと分かっている勝負に挑んで、やっぱり負けるっていう作品があるけど、読んでて後味が悪い」(白土三平の『サスケ』とかそうだよな)
「努力はしたけど、結局、巨悪(権力)の前には負けてしまうんだって諦めたような作品があるけど、自分の美学に酔っているだけなんじゃないの?」(新撰組のことを言っているな)

 ホモの古典?である『葉隠』にも「武士道と云ハ死ヌ事と見付けたり」って書いてあるけど、昔から日本人には、「美しくサクラのようにパッと散りたい」願望があって、自己犠牲好きだったりするからなあ〜。

それに対してアメリカンヒーローものでは、
「努力は報われると信じ、最後まで諦めないヒーローがついに目標を達成し、読者は幸せな気分になる」
ような話が多いのだ。

要するに、
「日本のヒーロー=諦めが早い」:「アメリカのヒーロー=自分の力を最大限発揮しようと努力する」
という違いがあるわけだ。

どうして日本人ってすぐ諦めちゃうのだろう。

「だって外敵が来ても、勝手に台風にやっつけられたり、その台風のおかげで収穫直前のお米が全部ダメになったりするんですよ。全部人間の力で解決できるなんて言ったら『思い上がってる』って言われちゃうよ〜」
 
フム。

「自然に逆らうのは所詮無理」的な発想がどうも日本人の中にあって、「たかが知れている人間の力で自然を支配するのはこの際諦めて、それよりも、人間の不幸の最大の原因である欲望をコントロールして、心の平安を求めたほうがいいんじゃないか?」的な方向に行っちゃったのかもしれない。

で、男の子向けのヒーローストーリーなどで、どーしても敵と戦う必要があるときは、アメリカではシュワちゃんみたいに肉体を鍛えて自力であくまでも闘うが、日本ではアムロのようにいきなり出来合いの機械に乗っちゃうのだと、かの岡田斗司夫氏も分析していたな(で、載っているヤツはいつまでたってもグチグチといじけた、「17話 アムロ脱走」<ブライト声で>とか、「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ」とか言ってる15歳だったりするわけだ)……。

で、結論。
「やおいものでは、一見社会的に非力な受け・日本男が、強い攻めアメリカ人よりも実はエラいので、日本人が『受け』でも悲観しないように」
である。

だから、一見無能な受け男は、攻めが困っているときに、

「僕には君の心が悲鳴を上げているのが聞こえる」とか、
「そうやって強がって見せなくてもいいよ。僕の前では。フフフ」とか

微笑んだりしているうちに、攻めのほうが勝手に納得して、自力で問題を解決してしまう上に、攻めに「苦しい時に僕の話を聞いてくれた」と感謝までされてしまうのである!
 
これはあまりにもオイシイではないか。

女性が上司になったとか、強すぎる女性と付き合うハメになったと悩んでいると男性がいるとしたら、この受け男クンを真似して見たらどうだろう。とてもナイスな戦略ではないか。アメリカではダメかもしんないが、少なくとも日本では通じそうだ。

ま、利口な「受け」に徹することができれば人生、苦労はないんだろうけど(やっぱ「受け」はイヤですか……。ゼンゼン愛国者へのフォローになんなかった、オー、マイガー!)。

(次号へ続く)

[文:スラッシュ君 000522]

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