第10回

<やおいものの永遠のテーマ「対等愛」>

やおいもののテーマの一つに、
「(男になって)対等な恋愛がしてみたい」
というのがある。

男と女ではどうしたって、「男」のほうが腕力は強い。レイプされるのは大抵「女性」だし、その結果、妊娠して困るのも「女性」である。しかし、男同士の場合なら、少なくとも肉体的には同等だ。

「自分が男性なら対等な恋愛ができたのに……」とつい青い鳥を追いかけてしまうのは当然のことであろう……。

 が、対等な恋愛関係というのは実は結構大変だ。何かやるごとにどっちが主導権を取るかで、とことん議論しなければならない。日本人には苦手な行為だ。実生活ではちょっと遠慮したいな、そんな心の休まらない家には帰りたくないな、という人が多いのではなかろうか。

 なのに、ひとたび、それが作品中の登場人物ともなると、「もっともっと、もめまくって、もがき苦しんでほしい〜」という読者=殿・神様心理も手伝って、ドラマチックで緊張感あふれる「愛憎入り混じり状態の主導権争い」である「対等愛」ものは、結構な人気ジャンルになっているのである。

 すべての点で優れた理想的な「攻め君」にいつも守られてばかりの「受け君」(ううう、羨ましいじゃないか)が、「頼ってばかりいる情けない自分」からの脱却を図ろうと苦悩するのは、もはややおいものではお約束の設定になっている。


<若い人はこだわらない>

 しかし、若い女性は意外にもこの「対等愛」に執着が無かったりする。

 「対等な恋愛ものを、それほど読みたいとは思いません」
 「受けを攻めが徹底的に守ってくれる、絶対的に安心できるっていう関係のほうが好き」

 この手の意見を言うのはなんと、アメリカでも日本でも「若い人」なのである。特に学生に多い。

 「だって別にそんな普段の生活(学校とか)では、不平等なんてないもの」 

 昔に比べ男女平等が進んだ現在では、こだわりがな〜いんですよ。対等に愛し合うってことに。ありふれたものにあこがれがないのは洋の東西も同じ。「気持ちが良ければそれでいい」的な奔放さが若い人にはあるのである。

 海の向こうのスラッシュ文学の世界でも、最近の読者は「対等な関係を追求する」よりも、「より作品性の高いもの」、新奇な設定や、ユニークなテーマ、過激な描写などを求める傾向にあるそうで、これは日米で共通な傾向と言えよう。


<狂うほど対等性を求めた日米2大女性に対する受け止め方の違い>

 だが、日米とも、昔はそれはそれは大変だったのだ。二人のよく似た女性を例にあげると、それがよく分かる。
 
 一人は、高村光太郎の妻、智恵子であり、もう一人はスコット・フィッツジェラルドの妻、ゼルダである。美しく才気煥発な二人の女性は有名人の夫と対等になろうともがき、最後は発狂してしまう(前者は前途有望な前衛女流彫刻家であったが、家事との両立は無理と諦め、後者はフラッパーの代表的女性と持ち上げられた反面、子どもの頃からの本格的な訓練を必要とするクラッシックバレエを突然始め、当然のことながら、壁にぶつかってしまう)。

 「え? 『智恵子抄』ってそういう話だったの?」

 って、驚く人も多いだろうが、実はそうなのである。日本人の多くが高村智恵子の悲劇を美しい愛の物語と勘違いしているが、アメリカ人はゼルダの物語を悲劇としてちゃんと捕らえている点で日米は、大きく異なっているのである。(参考文献『こわれる』青山南訳、ゼルダ・フィッツジェラルド著、晶文社/『高村光太郎のフェミニズム』駒尺喜美著 朝日新聞社)

 その頃に比べると、いやあ、本当にいい時代になりましたよ。スラッシュ君の両親なんかは結婚したら「二人でコンサートへ行く」なんて絶対無かったし、観劇だってあんまり夫婦だけで行くっていうのは無かったものな。

 今でも午後の銀座の喫茶店なんかに入ると、中年のおばさんグループであふれかえっていて恐ろしいほどだけど、あの年代の夫婦には、カップル単位で娯楽を楽しむ習慣がそもそもないみたいなのだ(それはそれでせいせいするのかもしれないが)。

 それに比べれて今の男女のは仲いいですよね。夜は二人で「カウチポテト」だし、中央線沿線の駅前では寒い冬の夜でも地べたに座ってギターを弾いている・聞いている男女がいるし(大抵、美男美女はいない)。 

 どうもこれって、「アイドルのおっかけをする男の子」が現れるようになってから、歯止めがなくなったような気がする。女性声優おたくが出現した時点から、男性側の嗜好も美人一辺倒から脱却してめでたい傾向である。

 
 近頃社会問題化している「ストーカー」なんて昔やったら、「男のくせにうじうじして情けない!」って言われてたと思うよ。絶対。

 少なくとも恋愛だけの点でみれば最近の男女は平等なようである。いやあ、めでたい。

 ただ就職など、「社会的対等の実現」の点においては、まだ日本は遅れている(男女雇用均等法前に就職したスラッシュ君なんか結構な目に合いましたよ。某大手電機メーカーとか露骨に男女で試験会場とか違うし……女子は三田の汚い町工場が会場で、床が昔の小学校みたいな「木」なんだ、これが。男子はきれいな本社ビルでさ。女工さんみたいな制服はあるし……って結局そういう恰好ばっかり気にしてるんかい?>自分)ため、やおいもののテーマとしては取り上げやすいようだ。
 
鳥人ヒロミの『セミ・シングル』(攻め君がカメラマン助手になり順風万歩なのに、受け君は就職も決まらず麻薬に走ったりする。で、受け君は行方をくらまし、攻め君はノイローゼに)
新田祐克の『美味いもん食わせろ!』(新米料理人がエリート料理人に「一人前になるまで会わない」と姿をくらまし、その間必死で修行する)
そねはらすみこの三部作『絆』『永遠の二月』『夢のかたち』(父親との近親相姦に悩む青年を助けたアルバイト学生は青年と幸せな同棲生活をスタートするが、父親の死後、青年が会社を相続し社長になったのに比べ、突然解雇の憂き目にあった学生は身分差に引け目を感じ、姿を消す)

などはいずれも「対等愛」の名作である。

 アメリカにおいても、仕事を持っている女性は職場での男女差別が何かしらあるので、リバーシブルが基本(そのほうが彼女らにとっては、より「ポリティカル・コレクト」らしい)のスラッシュ文学では、まだまだ「対等愛」は中年女性には人気のジャンルらしい。つまり、男女解放では若干日本は送れているが、やおいの成熟度(よりエンターテイメント志向だという点で)では日本のほうが進んでいる、とそういうことなのだ。


<アメリカゲイ文学でも最近までアナルよりオーラル>

 ところで、スラッシュ君は昔、民放で放映されていた80年台前半のイギリスの諜報部員もののテレビドラマで、昨年CSでも再放送されていた『ザ・プロフェッショナルズ 特捜班CI5』(いわゆるイギリス版「トミーとマツ」である。いや、『スタスキー&ハッチ』のほうが後継者としては本家か?)のスラッシュ作品を今度訳そうと思い、アメリカ人の友人に作品選定を頼んでいたのだが、

 「NC−17の作品があんまり無いけどいい?」

 と聞き返されてしまった。ううう、これは大変だ。何が面白くてスラッシュ君が辛い翻訳作業をするのかというと、「Hシーンが正確に読みたい」からに尽きる。なのに、NC-17じゃないだってえええ?
 
 ちなみにNC−17とははレイティングのひとつで、日本でいう「18禁」みたいなものだ。「anal penetration」(肛門性交)があれば、自動的にNC−17が適用される。「CI−5」のボディーとドイルの二人は早い話、犯ってないのだ! せいぜいが「hand job」(いわゆるカキッコ)または69などのオーラルプレイのみ。それについて友人は、

 「CI5の作家は比較的、年齢が高く、今ほど女性の権利が認められてなかったために、対等性に対する志向・渇望感が強いのだと思う。そのせいでレイプを連想させる肛門性交は敬遠されるのではないか」(でも文学的内容は非常に高く、名作揃いだそうだ)

 と推察する。彼女によればアメリカのゲイ文学でも学校の図書館で読めるような古典には肛門性交の描写は少なく、90年台になってゲイの人たちの発言力が強まり、SM文学が一般的になって初めて、描写されるようになったと言う。よって一昔前のスラッシュにも肛門性交はあまり描かれていないのである。

 アナルプレイは女性=服従を連想させ、屈辱的であるために、少年愛が盛んだった古代ローマの昔から西欧の男性には非常に忌み嫌われたという。


<強いものにとりあえずケツを差し出しておいたほうが得策の日本社会>

 対して日本では、「穴だけはイヤ」というこだわりは薄いように思われる。 

 儒教の影響のせいで、「忠義」を重んじる日本人は、目上の男性に従属することにさほど抵抗がない。なので、「尻を差し出す」ことくらい(切腹に比べりゃ屁みたいなもんよってなもんで)平気みたいなのである。「不名誉」どころか、「従順であることを示す良い証・自己犠牲」として、日本では「美徳」ですらあったのだ(多分)。

そしてそれは、「いつか自分が年長者になれば、「攻め」に回わることが約束されている」という完璧な年功序列社会(seniority system)。不満など出るわけがないのだ!

 要するに「掘らせる」のは、「年長者の社会に入れてもらうための通過儀礼(イニシエーション)」なんである。「そのくらい我慢できなければ辛抱強い社会人(一人前の男)にはなれないぞ」ってなもんなのだ。いやはや。偉いなあ。日本人って(ため息)。

 なのに最近の若者ときたら、「尊敬語と謙譲語」の区別もできないし(「大河物語」でさえ、「親方様が申されるには」などと、わけがわからないセリフがまかり通っている始末だし)、先輩のしごきに耐えるのが嫌いで野球よりサッカーだよなとかほざいている。美しい日本文化が失われていく今日、時代の流れには逆らえないものなのかと、ちょっとスラッシュ君はおセンチになる(こんな時だけ……)。

まあ、それは最近の若者に限られた話で、まだまだ一般的に日本では、男性同士の上下関係のほうが男女差別よりも、もっと厳しいっていうのが現状だ(休日の接待ゴルフとか上司の引越しを手伝うとか
、上司から飲みに誘われたら断れないとかさ……)。

え? じゃあ何? 日本じゃ、男になっただけじゃ、「対等愛」なんかできないんじゃん。男女関係よか、かえって辛抱することが多いんじゃないのよお! って、青い鳥は案外身近に居たわけよ。

どうも「男性同士の対等愛」はやおいの世界の中だけで「夢見ているうちが花」のようである……。

永遠のテーマシリーズ、次は「近親相姦」ものの予定です。お楽しみに。

(次号へ続く)

[文:スラッシュ君 000628]

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