第18回

<スラッシュ君の夏休みレポート「動物やおいから見た日本人の動物観」>

 最近私が面白いと思うやおい漫画に一つの傾向があることに気が付いた。それは

「動物が主人公になったもの」

 である。「子供と動物には勝てない」とよく言われるが、ショタはちょっと犯罪かも、って思ってしまうスラッシュ君でも「動物が主人公」となると、手放しで「カワイイッ、けなげ!」って思えてしまうから不思議だ。
 
 例を挙げてみよう。

●猫……本橋馨子『我輩は猫であった』。主人を愛するあまり死んだ猫が金髪碧眼の美青年(学生だがガタイがでかいので)となって生まれ変わり、無理やり迫ろうとする男から自分の主人を守る……が、結局3P?となるという誠に羨ましい話。

●鳥……さとうかずこ『LITTLE15』という短編集の中の「鳥類進化論」という作品。湖で溺れた主人公を助けようとして死んだ兄の弟が主人公を苛め続けるが、最後には湖で心中するに至り、この世のしがらみから逃れるように二羽の鳥となって飛び去っていくという悲劇。何度読んでも泣けるよ。

●馬……梶原にき『マドンナの片思い』。同じ乗馬クラブに通いながら、周囲に心を開こうとしない友人とどうしても仲良くなりたいと悩む主人公を見かねた馬が、主人公を愛しながらも、二人を取り持つために、泣く泣く一肌脱ぐという、どっちも少年ということさえ気にならなければ誰もが心洗われる名作。著者は河童カップルが登場する『月と水の夜』という名作ファンタジーも書いており、不思議な雰囲気をもつ作家さんである。

●獺(かわうそ)……小瀬秋葉『HARMFUL』という短編集の中の「獺(うそ)」という作品。抱かれた獺が恩返しのつもりか翌朝、川魚を取ってくる(けなげでしょう〜)。なので口が生臭かった……(ってなぜ分かる!)っていう描写が何とも微笑ましい日本民話的ファンタジー。大オススメ。

●各種……小林源文『Cat Shit One』。ベトナム戦争を動物を使って描いた(アメリカ人=ウサギ、ベトナム人=猫、フランス人=豚、日本人=猿、中国人=パンダなどなど)ハードな戦争もの。カワイイ動物が主人公のくせに、描写は残酷でリアル。そのギャップがたまらない。なぜ雑誌「コンバットマガジン」連載のこの作品が、やおい? という向きもあるだろうが、戦争ものは男性がいっぱい出てくるので、無条件で含まれるのだ。他にもやおい漫画の大ベストセラー、志水ゆき『LOVE MODE』の最新巻の巻末にも主要キャラ全員が動物というおまけ漫画が載っていて楽しませてくれた。

●植物……虚勢された安心できる男の象徴として少女漫画では男がよく草になぞらえれるが、やおい漫画でもそれは同じらしい。高原竟&立花つづく『雨の日のオーガスタ』『ハルシオンデイズ』では、失恋した主人公を慰めてくれるという、超なごみ系の植物青年(頭に葉っぱをつけている)が登場。心にしみる名作である。

 かようにやおい漫画でも「動物もの」は大人気だ。そもそもやおい自体がファンタジーなのに、さらに「動物が人間と恋愛してしまう」というのだから、ファンタジー度がさらにヒートアップするのは当然のことだろう。


<動物ものの王道、「犬」がきっかけで分かった西洋人の獣姦タブー>

 いろいろな動物の例を挙げてきたが、ポピュラーなのはやはり、けなげで従順な動物といったら右に出るものがない「犬」が一番であろう。

 飼い主に恩返しするため人間に化ける、飼ってた犬そっくりだからと相手を好きになるというのは、もはや定番だが、他にも田中鈴木の『Like a dog, as a dog』などのように、「自分が犬だと見抜いてもらえないと犬に戻れない」といった意表をついた作品(「動物に戻れるのがハッピーエンド」というのが実はとても日本的なのだが)や、松山花子の『夢見る少年の昼と夜』という短編集に収録されている「犬」という作品のように、犬が人間と同一の視点を持つという話もある(パピーウォーカー=育ての親に預けられた、自分のことを人間と信じる訓練前の盲導犬が、「自分は人の役に立つために生まれて来た」=「役に立たなければ自分の存在価値はない」という現実に絶望し、暴れて檻に閉じ込められてしまうが、今まで仲の悪かったパピーウォーカー家のわがまま息子に助けられ、「単なる駄犬」=「ありのままの自分」として生きることを許されるという一種AC的テーマを含む感動の名作!)。

 その点では東谷珪の『イジワルな神様』も同様で、主人を巡って犬と人間がライバル!を演じている(当然、犬が負けるわけだが、最後の短編で神様からとっても素敵なチャンスを与えられるも、犬ゆえに食意地が勝り、せっかくの機会を無駄にしてしまう……という泣き笑いありの超オススメコメディー)。で、これをアメリカ人に大傑作!と推薦したところ、こんなメールが来た。

「バター・イヌって何ですか? バターのブランド名?」

 と……。正しい読み方を教えるとともに、スラッシュ君が子供の頃、よく病院の待合室などで読みふけった故谷岡ヤスジ先生の名キャラまで動員して、「日本のポルノ物ではごくありふれた風物であるバター犬」を、懇切丁寧に説明したところ、

「ええええええ? 汚いし、噛み付かれたりしないのおおぉぉ!?」

と目をむいて驚愕している絵文字付きの返答が返ってきた。 

「え〜、アメリカにだってあるんじゃないの? こないだXファイルで、スカリーが小犬(名はクィークェグ。すぐに敵に殺されてしまう)を飼いたいと言い出す回があったんだけど、それを見ていた家族が『あれってバター犬だな』って笑ってたよ。『サン・オブ・ザ・ビーチ』(大人気番組『ベイ・ウォッチ』をパロったFOXチャンネルのバカ番組)でも、新人女性隊員がレスキュー隊の犬にマウンティングのポーズをしたのを見た古参の隊員が『君はチームの一員として認められたね!』って声をかけるシーンがあったし」

と軽いジョークで返したのだが、

「相当する英語はないし、こっちでは動物とのセックス描写は3大タブーの一つでとっても忌み嫌われているのよ」

と言われてしまった。ちなみに3大タブーとは、

・近親相姦
・チャイルドポルノ
・獣姦(bestiality)


(これに「人種差別」を加えて、4大タブーという場合もあるという)である。

 確かにたまたまアメリカのロングラン・コメディーアニメである『シンプソンズ』を見ていたら、「トロイ・マクルアー 人間と恋」の回で、bestialityが取り上げられていて、bestialityが俳優生命まで危うくするほどタブー視されていることが分かった(あらすじ:ホーマーの妻マージの姉、セルマは、かつての人気俳優、トロイ・マクルアーと仲良くなる。サカナとヤッたという噂のためにハリウッドを追われたトロイだが、セルマ(=人間の女)と付き合っているとフォーカスされ、過去の醜聞を払拭。見事カムバックを果たしたトロイと偽装結婚したセルマは華やかな生活を謳歌する。が、トロイに人間の女性を愛することは無理だと知ったセルマは自ら身を引く……)。

 日本では「人間の男と浮気されるよりマシか」程度のバター犬だが、西欧では考えられないことらしい(それでも『プレイボーイ』誌のピンナップ女性の隣りにペットが意味なく写っているのを見かけるたびに、タブーとは言いつつ、心の底ではみんな好きなんだろうなあって想像はできるのだけど……)。

 それで突然、スラッシュ君は学生の時に流行った柳田邦男や南方熊楠(『南方熊楠 男色談義』『南方熊楠稚児談義』等の著作がある熊楠は男色の体験・研究もしていて、「A感覚」稲垣足穂が光彩書房風だとすると、熊楠のそれはは冬水社風だったらしい……)などの「民話における日本人の動物観研究」を思い出した。日本の民話には鶴とか狐とかが人間と恋愛したり、結婚したり、子供をもうけたりする話が多く、人間と動物の境界が希薄だと書いていた。そうかあ、同じことを疑問に思ったわけね。お互い(ジャンルは天と地ほども違うにせよ、トホホ……)。なんてシミジミ感慨にふけってしまったが、確かに

●日本の民話では「人間と動物が対等」であり、「動物が人間に化けたり」「人間が動物に変身したまんま」という話が多く、
●西洋の童話では「人間が、魔女や悪魔のおかげで、かえるや白鳥などの動物に貶められ、最後は無事、人間に戻ることができて、めでたしめでたし」という話が多い(動物が人間になるのはほとんどない)。

 という。この原因として、

●肉食民と米食民の違い、狩猟民と農業民の違い
●人間を生物の頂点とするキリスト教と、輪廻転生を信じる仏教の違い
●一神教と、八百万の神を奉じる多神教(アニミズム。古代の日本人は動物を神とあがめた。オオカミの語源が「大神」であることは有名だが、農作物を荒らす鹿や猪などを食べてくれる狼は益獣だったのである)の違い

 などが挙げられている。どれが有力な説なのかは学者に任せるとして、「日本武尊でさえ最後は白鳥! にしてしまう」ほどの日本では、「自然界(動物)」vs「文明(人間)」という対立が西欧ほど明確ではない気がする。かようなメンタリティーの違いが、「同じ動物ものを読んでも、解釈が著しく異なる」事態をひき起こすのだ。


<かみ合わない「白鳥論争」も動物観の違いが原因だった>

 だいぶ前にアメリカ人から

 「ねえねえ、マシュー・ボーンの『白鳥の湖』って見たことある? 昨日テレビでやってたんだけど、すんごい素敵だったのぉ」
 
 とメールをもらったことがあった。その後1年たった頃、スラッシュ君も見ることができたので、感想を送ったところ、お互いの解釈が全然違っていることを発見し、どちらが正しいかで延々議論をしたことがあった。

 自身もゲイであるマシュー・ボーンは、古典バレエの名作「白鳥の湖」を大胆な新解釈で振り付け、賛否両論であったが、20世紀史上に残る名舞台という評価を獲得した(といっても要は、白鳥も王子も超美形男が演じたってとこが私らのもっぱらの関心事なんですが……)。

 見てない人のために簡単なあらすじを説明しよう。

「白鳥のぬいぐるみを抱き締める夢見がちな少年だった王子は、長じるにつけて増していく王子としての重責と堅苦しい王室の職務に飽き、悶々とした日々を送っていました。かといって、イギリスの女王よろしく、権力と恋を思うがままに操る母親からの愛も得られず、淋しい王子は悪い女に引っかかってしまいます。王室の権威の失墜を狙う報道官が紹介したその女性はお金で雇われた娼婦で、王子のことを心から愛してはいなかったのです。失意のどん底の王子は自殺しようとして夜の公園を訪れます。そこで王子は美しい白鳥の一群に出会い、そのリーダー格の白鳥に心を奪われてしまいます。ところが、その後開かれた舞踏会で王子は、白鳥そっくりの若者がいるのを見てたいそう驚きます。報道官の息子であるそのジゴロな若者は、王子の視線をよそに、多くの女性を誘惑し、しまいには王子の母親である女王までもたらしこみます。若者に冷たくあしらわれた王子は嫉妬のあまり、若者を殺そうとして、間違って先の娼婦を殺してしまいます。精神の病をきたし病院に幽閉された王子は夢の中で白鳥に出会い愛し合いますが、仲間からいたぶられた白鳥は死に絶え、王子もその後を追うようにあの世へと旅立ちます……」

 で、この作品をスラッシュ君はこう解釈した(最近とみに池田憲章化が激しいスラッシュ君のあくまでも独自解釈に過ぎず、見た後で「言ってたのとちゃうやん!」って言われても責任は持てませんが)。

「ハッテン場(日本人ファンがこの作品を評して『ハッテンの湖』と呼んでいたことから、日本人にはある程度共通の認識だと思われる)の公園で王子は自由恋愛を謳歌する白鳥たちを目撃する。リーダーとしてブイブイ言わせていたドラ息子の天使のような外見にすっかり騙された王子は中身も『天使のように純粋な男』だと思い、すっかりのぼせあがってしまうのだが、本当は欲にまみれた、その実、ちょっとファザコンな悪党(ドラ息子が「いや〜、昨日公園で思わぬ人物に会ってさ、誰だと思う? 王子だったんだよ〜、ウブいやつだったなあ」とたまたま父親にちくったところ、「娼婦ではダメだったが、お前の話を聞いていたら、王子は男好きなんだな。よし、小遣いをやるから、王子を痛い目に合わせてくれ」とそそのかされたらしい)であった白鳥は舞踏会でさんざん本性をさらけ出し、王子の心をズタズタに踏みにじってしまう。それがきっかけで王子が壊れてしまったと知ったドラ息子は、馬鹿なヤツだと笑いながら、ふと自分の胸に小さな穴が空いたような気がした。自分の世界には無かった王子の価値観(愛がすべてに勝り、愛のためなら死ぬことも辞さない)にショックを受け、今まで自分を取り巻いていた欲得ずくの世界が急に色あせて見えてしまう。が、そんな弱気のリーダーを仲間は許さず、なぶり殺しにしてしまう。王子は狂気の夢の中で自分の理想通りの恋人と手に手に黄泉の国へと旅立つ……って、なんだかんだ言って王子って幸せ者だったじゃん的ハッピー物語」

対してアメリカ人の解釈はこうであった。 

「まず、ここでの公園はハッテン場じゃないわ。ボーンは自分のサイトにも書いているようにこの作品をゲイのラブストーリだと捉えてないもの。王子が女性と別れたのは彼女が娼婦だったからよ。また、王子は野生の白鳥が持つ、のびのびとした生命力に元気付けられたのであって(偉大すぎる母親のせいで大人になりきれない王子 − いわゆるエディプスコンプレックス − というのは、イギリス王室に対する痛烈な皮肉となっている)、純粋さに惹かれたわけではないわ。舞踏会でのジゴロも、報道官の息子ではなく、単に報道官に金で雇われたチンピラであって、白鳥とは別人よ。最後に白鳥が他の仲間に襲われるのは、人間と恋をするというタブー(種に対する裏切り)を犯したリーダーを他の白鳥たちが許さなかったから。野生の世界は一見自由な理想郷に見えるけれど、実は非情な弱肉強食の世界。陰謀がうずまく、それでいて、自分の感情を殺さなければならない不自由な王室にも、野生の世界にも王子は自分の住処を見つけられなかったのね」

 結局両者の言い分は平行線をたどった(そもそもこんなことで議論すんなって感じですが)のであるが、どうしてこれほどまでに意見が合わないのかなあと当時はとても不思議に思ったものだ。が、ここにきて疑問が氷解した。解釈の差は「人間界と動物界は相容れない」という西洋の根本思想から来ていたのである! 


<滅び去ったアニミズムがやおいものに蘇るのはなぜか?>

 中でもアメリカはこの傾向が強いように感じる。「人間が生態系のヒエラルキーの頂点に立っている」というキリスト教的精神が、広大なアメリカの開拓には不可欠だったのだろう。急激な開発で滅亡した動物も多く、稀代のストーリーテラーである秋乃茉莉の長編シリーズ『Petshop of Horrors』の最終巻でも挙げられているが、リョコウバト(かつては空を真っ黒の覆うほど生息していたが肉が美味だったため乱獲であっという間に絶滅)やネブラスカオオカミ(シートン動物記のオオカミ王ロボとして有名な種)は絶滅し、アメリカバイソン(バッファロー。ネイティブ・アメリカンが生活の基盤としていたので根絶やしにしたそうだ)も絶滅寸前であるという。あんなに広い国なのに。鯨とか言ってる場合じゃなかったのだ。

 とはいえ、レッドブックに絶滅種を連ねる点では日本も負けてはいない。ニホンオオカミ(西洋犬から伝染したジステンパーが原因という説もある)やエゾオオカミ(乱獲や外国からストリキニーネを輸入してまで撲滅したため)にしてもとっくに絶滅してしまっているし、トキやイリオモテヤマネコをはじめとして多くの動物・植物が絶滅の危機に瀕している。いかに日本人といえど、文明開化以降は急速にアニミズムを失っているはずなのだ。ならなぜ、今、やおいものに、「動物もの」というテーマとして、蘇ってきているのだろうか? 

 「タブー」は実は、「差別」と表裏一体である。自分たちだけは特別だと、他者と区別したいという特権意識から来るものだからだ。それが「差別に敏感なやおい読者」には「許せない」のである。

 前述の松山花子もネイティブ・アメリカンをしばしば取り上げているが、最近この種の民族問題ネタが増えてきたのも同じ理由からだろう。その意味では、篠原烏童の「純白の血」「沈黙は星々の渇き」「ファサード」や獸木野生の「パーム・シリーズ」などの「絶滅の危機に瀕している動物もの(ヴァンパイアも含めて)」も根は同じだと思われる。
 

<これからは個人のライフスタイルがタブーを決める?>

 だが、男女差別、人種差別、宗教的差別、身分差別、職業差別などのあらゆる差別や偏見への批判が、しばしば「娯楽であるやおい漫画」のテーマになりえる本当の理由は、「他者に対して傲慢になりがちな自己に対する反省欲求」のためではないかとスラッシュ君は考える。この手の自己反省欲求というと、「徒に自分たちを卑下する悪癖を植え付けられた教育の結果ではないか」などと、自虐史観の人に言われそうだが、どうも本人たちはそれが愉しくてやっているのであって、別に正義や信条のために行っているとは思えない気がするのだ。自分の罪を悔い改める「自恣」の日が「お盆」の起源だというが、殺生を反省し動物を野に放つ「放生会」の行事など、日頃の生活の中で日本人はしばしば供養という名の行事を楽しむ習慣がある。「自己の傲慢さを戒める」というのは多くの人が共通して持っている快感欲求なのだ。

 これって何かに似ていると思っていたら、そうだ、思い出した。お偉いさんが好きな「奴隷プレイ」にソックリなのだ。が、この場合の被虐欲求は「自分が社会的に有利な立場に立っているから」こそ持てる贅沢な欲求なのだ。自分がいつも媚へつらわれているから、たまに虐げられるのが新鮮なのであって、本当に虐げられている毎日を送っていたなら、苛められたいなんて絶対に思うはずがない。差別問題ネタが娯楽になりえるのは、実は「幸せな現状を実感し感謝する喜び」が伴うからなのだ。権力者が法隆寺や将門の首塚を建てたり、全国のあちこちに氷川神社があるのと同じことなのだ。

 もっとも中には「そういうプレイは虫唾が走る」「物見遊山で差別運動に気軽に参加するのは不謹慎だ」と、その手の快楽を強く否定する人もいるだろう。しかし両者に著しい違いがあるとはどうも思えないのだ。認めるのが嫌だと右に振れるか、認めてしまって楽になりたいと左に振れるか、その差だけではないかと思うだからだ。認めてしまったほうが愉しい人生が送れると思うならそうすればいいし、死んでも嫌だという人に強制するわけにもいかないだろう。

 宗教心も薄れ、インターネットによる文化の共通化・国際化が進みつつある現在、何をタブーとするかは、個人のライフスタイルの問題に過ぎなくなるのかもしれない。 


(次号へ続く)

[文:スラッシュ君 010717]

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