第25回

<同性愛先進国はやおい後進国?(その3)− 家なき子を生んだ国民にショタを説かれるの巻> 

 前回の衝撃の告発によってスラッシュ君が長年フランスに対して抱いてきた虚像はこなごなに砕け散った。フランス人を励ましフランスの名誉を回復すべくスラッシュ君はある秘策を思いついた。

 それは「アメリカ人批判」である。

 自国の不満をそらすには「外敵を作れ」というのが定石だ。アラブの王族より英語が出来ないことで知られる、あのブッシュ大統領(注1)でさえやっている。

 自分のフランス幻想を守りたいという私利私欲のためにスラッシュ君は、昨日の友アメリカを売り渡そうというのだ。いまや悪口も辞さないと(いや、このコラムでも散々悪口は言ってきたのではあるが)……。


<大人なフランス人 vs お子様アメリカ人>

 まずはフランス男をヨイショすることにした。

スラッシュ君(以下ス)「でも何だかんだ言ってフランス男ってカワイイじゃん。女性の性欲を否定するにしてもさ、フランス男の場合は『経験豊富な女性に捨てられたら僕ちゃんどうしよう〜』っていう恐怖心からでしょ。ピューリタン的倫理感から『けしからん! はしたない! けがらわしい!』の三連発攻撃な偽善者アメリカ男よかよっぽど分かりやすいよぉ」

フランス人(以下フ)「確かにアメリカって変なタブーが多すぎ。Hがダメなのに銃はOKって何? どっちのほうが人を傷つけるかってねえ」

 言う言う。やっぱフランス人ってアメリカ人が嫌いなんじゃん〜。といわけでフランス人はまずアメリカ版日本アニメの「変な検閲」を槍玉に挙げた。

フ「CLAMP(注2)の『カードキャプチャーさくら』のフランス版(日本語版をフランス語に吹き替えたもの)とアメリカ検閲版を見比べてみてビックリしました。さくらが兄の友人に憧れるシーンまでカットされてたんです」

 幼い女の子と年上男性とのロリコン的恋愛はまかりならん〜ということらしいが、そうやって説明されなければ何で検閲されたのかサッパリわからない。そしてフランス人はさらに驚くべき事実を教えてくれた。

フ「アメリカにはHなシーンや暴力シーンを取り抜いたビデオを割増料金でレンタルするファミリー向けビデオショップ、『Clean Flicks』なんてものまであるんですよ」

 そんな気の抜けたビールのようなビデオをワザワザ高い金払って見る客がいるんだろうか? と思ったが、悲劇なら金返せというアメリカ人は少なくないのである(注3)。

 先日もアメリカやおい漫画ファンのMLを見ていてこんな切実な叫びを発見した。

「『ハードライン8巻』(注4)が出ましたが、結末はハッピーでしたか? 悲劇でしたか? ロイとジムはずっとカップルでいられるんでしょうか? 心が狭いと言われようが私はどっちかが死ぬなんていう話は絶対に読みたくないんですぅぅぅぅ〜(泣)」

 彼女にとってはネタバレより悲劇ほうが問題なのだ。

フ「アメリカ人は人間が持つ『負の部分』が嫌いなんだと思いますね。お子様過ぎて人間のネガティブな面を認めることができないんでしょう」

 コドモっぽい+ピューリタンな国民はセックス・スキャンダルを最も禁忌する。政治家ならばなおさらだ。だがフランスでは、たとえ大統領といえでも、セックスライフはプライベート事項。野暮な詮索はしない。モニカ・ルインスキー事件の時、「(こんな騒動)フランスでは絶対に起こらない」とよく言われたものだ(注5)。
 
 また、稲垣吾郎が謹慎中、アメリカ人から「ジャニーさんとのスキャンダルも致命傷になったのではないか?」という邪推メールが来たことがある。同じことがアメリカの芸能界で起こったならば、とんでもない騒ぎになると言うのだ。しかしスラッシュ君は、日本の多くの女性ファンにとっては、「(芸能界でそういう事実があろうが無かろうが)どっちでもいい」くらいのものではないかと答えておいた(注6)。偏愛が芸のさまたげになりファンが迷惑するなら別だが、そんなこともないからだ。

 アメリカ人の子どもめいた正義感にさらされ続けていると、フランス人の道徳観のユルさに思わずホッとさせられる。

フ「フランス革命の3つの精神、自由・平等・博愛のうち、フランス人がちゃんと守っているのは自由だけ。後の2つは忘れちゃってる(笑)。平等と博愛って、自由とは相容れないことが多いから」

 そしてフランスのように個人主義が尊重される社会では、とびきり良いことが一つある。集団としてまとまられると迷惑なムーブメントである「差別運動」が盛り上がりにくいという点だ。自分以外のことに無関心。人からとやかく言われたくないから、人のプライバシーにも踏み込まない。そんなワガママな人たちにKKKみたいな組織が作れるはずもないのである。


<差別で一番迷惑するのは弱者と異端>

 集団の団結力が弱い結果、移民や女性やゲイの人もフランス社会には受け入れられやすい。

 アメリカで黒人ジャズミュージシャンが不当な人種差別を受けていた頃、一転してフランスではアーティストとして尊敬され丁重なもてなしを受けていたことはよく知られている(注7)。

 ふとスラッシュ君は学生時代の知人のことを思い出した。

 スラッシュ君と同じ年に大学に入った日本女性のうち、恐らくは上から数えて10位は下らないだろうと思われる才女が2人もフランスに行ってしまったのだ。……ショックだった。限られた条件の中で高いパフォーマンスを修めることができる彼女たちはなぜ日本を見限ったのだろうかと。

 そのうちの1人からもらった渡仏を知らせるはがきを見て、スラッシュ君は何か分かったような気がした。何年か日本の役所で勤めた後だったこともあって、お世話になった人たちに出したのだろう。文面には「私は組織人としては失格だった……」とあった。日本では彼女の個性や能力を生かせなかったのだ。そして、フランスはそういう彼女達を受け入れる国だったのだろう。チャーリー・パーカーのように……。

 そんなフランスはゲイの人に対してもまた寛容である。

フ「大統領選を控えた今年の4月、世論調査が行われたのですが、『ゲイの大統領が誕生してもいいか?』という問に対し、ウイと答えた人は全体の70%以上でした」

 とフランス人は胸を張る。確かに自慢していい数字だ。そしてハリウッド映画でのゲイの描かれ方にも大いに憤慨していた。

フ「アメリカの映画やテレビ番組でゲイの役が出ると、大抵はヒロインの引き立て役です。ホモを馬鹿にしてますよ」

 『ベストフレンズ・ウェディング』や『2番目に幸せなこと』(注8)など最近のアメリカの恋愛映画にはしばしばゲイが大女優と共演する。これが日本のヤオラーの間ですこぶる評判が悪い。繊細なゲイ君が、ゲイ好きな女性には嫌われるステレオタイプな人気女優(なぜか厚かましく映る)の、単なる引き立て役に貶められているからだ。これは非常にムカつく(注9)。

 フランス人は『私の愛情の対象』(注10)がハリウッドで映画化された際、大幅に原作が修正されたと怒っていた。

フ「原作では主人公の男性はルームメイトの男性の元を去り、養子を引き取って、別の男性と家族生活を始めますが、映画では主人公はヒロインを選ぶんですよ。ピューリタンな価値観を信奉するハリウッドの制作者が、伝統的な男女+子どもっていう既成の家族概念から一歩も出ていない凡作に、原作をすっかり変えてしまったんです」

 ヨーロッパ映画のアメリカ版リメイクは総じて評判が悪い。『心理探偵フィッツ』なんかボビー・コルトレーン演じる巨漢の主人公が少しスマートになっただけで何だか平凡になってしまった。『プリシラ』(=>『3人のエンジェル』)や『赤ちゃんに乾杯!』(=>『スリーメン&ベビー』)や『Mr.レディ Mr.マダム』(=>『バ−ドケ−ジ』)などのゲイ・レズビアンテイストな映画のリメイクは特にヒドイ。どうしてああもつまらないリメイクが作れるんだかとクビをひねってしまう。

 で、スラッシュ君とフランス人の行き着いた結論が、「子どもの味覚と同じで、アメリカ人って複雑なものを受け付けないんじゃないか?」である。

 確かにヨーロッパやアジアの映画はとっつきにくい。癖がある。でもそれが味だったり個性だったりするわけだが、ちょっとでも変わっているとアメリカ人はもう嫌なのだ。普段も国内のニュースにしか興味がなく(おかげでマスコミも大統領が大好きだ)、外国で何が起こっていようとてんで無関心。そのせいか何もかも自国製でないと気がすまない。「世界は一つ……」という例の音楽とともに、金に有無を言わせて世界をユニバーサル化(=アメリカ化)しようとする。

 インターネットの発達のおかげで他国の本やビデオが簡単に買えるようになったが、アメリカ人大衆が他国のソフトを買うことはほとんど無い(スラッシュ君のまわりのヤオラーアメリカ人は例外として)。ネットを発明したアメリカ人がインターネットの恩恵を受けないなんて、何と皮肉なことだろう。

 どうしてアメリカ人は「ちょっと変わっているとダメ」なのだろう。この原因をスラッシュ君とフランス人は「マニュアル化の弊害」ではないか? と考える。

 前回、「フランスでは芸術は学べないものと思われている」という話をした。逆にアメリカでは「何でもマニュアル化すれば学べないものは何も無い!」と思っている節がある。だからアメリカの書店には「○○ハンドブック」や「How to ○○」といったマニュアル本が溢れている。マニュアル主義の悪いところは、行きすぎると自分の頭では何も考えなくなることだ。人生において「哲学する」ということもなくなる。

フ「アメリカの哲学って言われて思い出すのはプラグマティズム(実用主義)だけだもの(笑)」

 マクドナルドが世界に広がるのに「マニュアル文化」は大いに貢献したが、だからといって食文化がハッテンしたか? と聞かれると疑問が残る。ハリウッド映画は大金をかけて豪華な映画を作り大衆を魅了するが、同時に誰にでも分かりやすい映画は没個性的で退屈だ。

フ「ハリウッド制作者は投資に見合う利益をあげたいので、既にマーケットで成功することが保証されている手法を繰り返したがるのです。リスクを負いたくないから、新しいことやユニークなものにチャレンジしない。結果、安易なリメイクが量産されるんでしょう」

 とはいえアメリカには『トーチソング・トリロジー』というゲイが子どもを育てる名作映画がある。なのでハリウッドゲイ映画が全部ダメというわけではないと思っていたのだが、最近アメリカ人から驚くべき話を聞いた。

アメリカ人「近頃『ホモが養子を取ることまかりならん!』という州が増え始めてるんですよ。1977年のマイアミで『養子を取ることに性差別をするのは不当である』という法案が可決したのをきっかけに反ゲイ運動が生まれました。アニタ・ブライアントというパブティスト宗派の活動に熱心な歌手の"Save Our Children"をスローガンにした反ゲイ十字軍運動です。それが最近のブッシュ政権の保守派・宗教派の台頭で再び勢いづいたのです。彼女はゲイに同等の権利を与えると、ストレートの無垢な子どもたちをゲイに堕落させてしまうと主張し、フロリダ議会はゲイが養子を取れないという法律が可決してしまいました。ホームレスの子どもや足長オジサン制度の世話になっている子どもたちの多くがゲイ・レズビアンだったり、10代のゲイの子の自殺率が高いことを考えると、こういったゲイの子どもたちが同じ問題で悩んだことがあり的確な指導と援助を与えることのできる理解あるゲイの親たちからの愛情を得られなくなるなんて、とても悲しいことです」

 十字軍と名のつく団体にろくなのはないが(注11)、最近のアメリカの保守化は目に余るらしい。リベラルなアメリカ人にとっては、ドラマ『West Wing』だけが救いだという(注12)。


<マニュアル文化ではショタやSMを理解できない>

 人は人、自分は自分という国民性は「多様な文化」も許容する。それは単に異国の文化だけに留まらない。マイナーな趣味やアブノーマルな文化を個人が嗜好するのも許されるということだ。アブノーマルな嗜好といえばショタもその一つ。「ショタマンガを読んでることが人に知られたら私の社会人生命は終わり」とまで言い切るアメリカ人女性とは、正直ショタ的楽しみをじっくり語ることは難しい。しかしフランス人と話している分にはその手のプレッシャは微塵も感じられない。

フ「私は子どもの頃、『ベルサイユのばら』から自国について多くのことを教えられましたが、同じくらい『レミ・サン・ファミーユ(Remi sans famille)』からも学びました。このアニメに描かれている、昔のフランスの人々の苦労や悲しみ、美しい田園風景に心打たれました。このアニメを見るまでフランスの地方都市についてほとんど何も知りませんでしたし、昔のフランス人がこれほど苦労したということも知らなかったのです。古いフランスの児童文学を生き生きと描き、現代の子どもも楽しめるようにした出崎統の演出力を私は高く評価しています」

 エクトル・アンリ・マロ原作『Sans famille』のアニメ『家なき子』(注13)のことである。

 スラッシュ君も実は1970年に東映動画が製作公開した『ちびっ子レミと名犬カピ』をたまたま見て(当時はいたるところに映画館があって、夏休みには子どもは東映まんが祭りに行くもの、と相場が決まっていた)、ストーンとはまってしまった口だ。この映画にスラッシュ君はショタの本質を見た気がしたからだ。

 最も感動したシーンが、カピたちの助け無しで(風邪か野犬の襲われて死んだか何かで)レミがピン芸をしなければならなくなるという危機を前に、親方のビタリスが2度と歌わないつもりだったオペラを熱唱するシーンだ。なぜビタリスが人気オペラ歌手の過去を捨てたのかは忘れたが(多分舞台上での失敗)が、

「このオヤジは壊れた大人の象徴なんだな」

 ということだけは子ども心にも分かった。そしてけなげに生きるレミ(と動物たち。そうかレミって犬並だったのか)を見て救われたのが実は、オヤジのほうだった、ということも……。「家なき子」には「カワイソウな少年に壊れた大人が癒される(被害者である子どもが同時に大人に対して優位に立つ)」という典型的なショタ構造が内包されていたのである。

 突如「レミ、カピ」とか叫んでみたり、一時は本当にはまった。レミの絵バッカリ描いていたほどだ。当時ビデオがあったらセリフの細部まで覚えているだろうに残念である。カルメン・マキの『時には母のないい子のように』(注14)という歌も当時のスラッシュ君の愛唱歌だったから、小学生というものはある時期、「親の保護から引き離される恐怖」にむしょうに憧れるものなのかもしれない。ま、単にスラッシュ君がショタ(&オヤジ)好きだっただけかもしれないが……。

フ「さすがに絵を描こうって思ったことは無かったけど、ショタ的要素を楽しんでいたことはありますね」

 カワイソウはカワイイにつながる。『フランダースの犬』のネロが愛犬パトラッシュに語りかける最後の名セリフ(注15)を反芻するたび甘酸っぱいものがこみ上げる。困ったもんだ。子どもが苦労するのを楽しむなんて「人として最低じゃありませんか?」って言われそうだけれど、これについてフランス人はアッサリと答えた。

フ「それはアリストテレスが『詩篇』の中で言うところの『カタルシス』です。ギリシャ悲劇のような非日常の強い衝撃、悲しみ、絶望を見ることによって人はホッとするんですよ。なので劇にしろアニメにせよ虚構の話は常に日常より大げさなんです」

 う〜んショタを語るのにアリストテレスですか。やっぱりスゴイよ。フランス人は。哲学者を引用して「ロリ好きは人間の本質である」と言い切るんだから。さすがマルキ・ド・サドを生んだ国だけのことはある。変わった嗜好の人もさぞ生きやすいことだろう。『火垂るの墓』も『Banana Fish』も『日出処の天子』『幸運男子』『摩利と新吾』(第2回「アメリカ人は悲劇ものに弱い」参照)もドーンと来いだよ。かわいそすぎるって言われないから安心だ。 

 角兵衛獅子の伝統があるせいか、『アルプスの少女ハイジ』、『小公子』、『小公女』、『オリバー・ツイスト』、『母をたずねて三千里』(注16)『ロミオの青い空』(注17)などのような「悲惨な子どもたち(たまに動物)を描いたヨーロッパの児童文学」が日本でも大いに親しまれ、多くの絵本やアニメに仕立てられた。特に女の子がこの手の苦労談を愛読しているようだが、男の子に比べて親の庇護が厚い女の子は、より「非日常の世界で苦労をバーチャル体験し、カタストロフィーを得たい」のかもしれない。

フ「少女漫画ものは少年漫画に比べて『耐える』内容が多いですね。そのせいでしょうか少女マンガのほうが、心理描写が高度で、精神的に深いテーマが描かれています。少年漫画の中に登場する『障害(バトル)』は主人公によって克服されて、成功・快感・幸福・満足をもたらすものであり、あくまで楽しい体験です。楽しい体験だけでは心は成長しないのかもしれません」

 『山椒太夫』のもとになった『さんせう太夫』『石童丸(高野山)』(注18)『信徳丸』(注19)などの日本の典型的な子ども苦労談は、中世の説経節がルーツであり、説経師がささら(楽器の一種)を擦りながら町の辻で歌う悲しい少年の物語は、当時の差別や圧制に苦しむ庶民の心をいたく慰め、人々の間に広まっていった。

 もともと説教節はその前の平安時代においては、僧侶が仏教の経典教義を字が読めない庶民にも親しみやすく伝えるための物語りである「説経」だった。やがて説教節は江戸時代になると三味線を伴奏楽器として取り入れ、人形劇・説教浄瑠璃にハッテンする。それが明治の西欧化で原作をヨーロッパ児童文学に変え、戦後テレビの普及で「世界名作劇場(アニメ)」になったのだ。

 説教節がアニメになっただけで、日本の庶民は一貫してショタ(子どもによる慰め)を求め、継承してきたのである。20年間にわたって愛された「世界名作劇場」も『家なき子レミ』を最後に幕を閉じたが、日本のお家芸である「子どもの苦労談」は、常に新しい形を模索し、これからもハッテンし続けてもらいたいものである。

 
<スラッシュもやおいもフランスには生まれない理由>

 国民が大人なフランスは現代人にとって非常に生きやすい国であり、生活するには良さそうだ。が、だからといってフランスにいればスバラシイやおい作品が書けるかというと話は別だ。それは試験前のプレッシャーがなくなった途端に何もやる気がなくなる学生とよく似ている。現実逃避する必要が無いからだ。

 スラッシュ君には日本のカップルが変だ、と思う点が2つある。一つは永久就職への女の貪欲さとセックスに対する男の涙ぐましいまでの熱意だ。

ス「スラッシュ君が学生だった時、コンパの席で男子学生のために魚の骨を争って取ってやろうとする女子学生の姿を見てビックリ仰天したよ。学生のうちから将来の伴侶を見つけておこうという競争にはすさまじいものがあったな。もちろんスラッシュ君は1人手酌で飲んでたけど……」


 20年前の話なので多少時代錯誤な感はあるが、似たような「お手製お弁当・マフラー攻撃」は今でも結構行われている。が、

フ「フランスじゃあ、カップルがよく二人で朝食(もちろんアフターに)を作ったりしますよ」


 と言うではないか。作るのはフレンチトーストてか? って思わずイヤミのひとつも言いたくなるぞ。そしていきなりだが、フランスでは映画館料金も安い。45フラン(約800円)で、6時過ぎればたったの10フラン(約300円)だという。どうして日本じゃ映画がそんなに高いのか? とフランス人が言うので「日本でもレディース料金は安いよ」と教えてやった。

フ「ええええ? そんなことして映画好きの男性から文句が来ないの?」

 んなもん来ないよ。クリスマスのホテル料金が高いのを誰も不思議がらないのと一緒だもの。

ス「日本ではロードショーはデートの手段にすぎず、内容なんて2の次。見終わって映画の話なんかしたくない。その後セックスができさえすればどんなことにも(見たくもないフヌけた恋愛映画を見るとか)男性は耐えるんだよおおお」 

 キャラクターグッズ売り場に場違いな男性がいるなと思うと、連れの彼女がいて、「あ、これカワイイ〜」と同意を求めている。男のほうがそれに生返事しながら必死に耐えているのも、皆、その後のお楽しみがあるからこそだ。

 だから結婚した途端に双方が「こんなはずじゃなかった!(男につくすのが好きなのかと思った!)(私をあちこち連れてってくれて楽しませてくれる人かと思った!)」になってしまう。

 そういう現実の恋愛に比べると、やくざやギャングや警察組織や会社や軍隊や監獄やプロレス団体やレーサーや消防士やプロスポーツチームの男たちの友情や団結力のなんと清清しく美しいことか……。アメリカ人女性もそんな男性アクション映画を見てスラッシーな妄想をたくましくしているんである。

フ「なるほど。パートナーと強力で美しい絆が築けない日米の女性は男性社会の強い結束に憧れと嫉妬を抱いているんすね。それで分かった気がします。峰倉かずやの『最遊記』に常に深い絶望が描かれている理由が。男性同士の友情に憧れるけれど自分は男性になれないという諦めがその底には流れているんですね」

 確かにフランスにはフィルムノワールと呼ばれるギャング映画はあるが、英米のハードボイルド小説にあるような男同士の強い結束はあまり描かれない。『天井桟敷の人々』のような反戦映画はあっても、『バンド・オブ・ブラザーズ』のようなアメリカの戦争ドラマでよく描かれる友情神話(賛美)はない。また、フランス人女性は男性ならではの腕力・暴力の美学に憧れることがないという。

フ「男になって思いっきり殴り合いをしたいなんて思いません。普段でも彼氏を殴ってますし、大喧嘩してますから(笑)」
 
 フランス女は彼氏に対しても凶暴で容赦がないんだそうだ。

フ「でもヤオラーやスラッシャーが描く『絶望』を読むのは好きですよ。フランス人はろくでなし(負け犬、クズなど底辺の人々)を溺愛しますから」

 フランスでは男性が集団でつるむことがないので、腐女子のサカナになることもまた少ない。日本やアメリカと違い、社会がホモソーシャル(注20)ではないのだ。確かに実際生活するなら友情より愛情を優先してくれる男性と結婚するほうが確実に幸せになれる。親友と称するクズ男(とか愚弟)から下手に借金を肩代わりさせられるなんてこともない。現実生活で性的抑圧が少なければやおい作品もまた必要とされないのである。

 『空手バカ一代』とか『魁!男塾』のようなぶっ飛んだ男気漫画も近頃は少なくなってきた。今や「オンナの人が嫌と思うようなことをあえてするのが男らしい」なんて言ったらギャグかと思われる。男女ともに、自分の属する集団の一員として生きるよりも、自分らしく生きたいと志向する時代になった。他人は他人、自分は自分。社会全体がより個人主義化、成熟化を目指しつつあるのだ。いわゆるフランス化が進行しているというわけだ。

 さすが中華思想の国フランスだ。最後は自分らの国が一番大人だ、エライのだ、ということになってしまった。スラッシュ君としては目的を果たしたのであるが、ちょっと何だかなあである。

(次号へ続く)


<相変わらずオバサン話な注>

注1:ブッシュの間違った英語に詳しい翻訳家の西森マリーさんによるとアメリカでは「イングリッシュ・ペイシェント」と呼ばれているそうな。(

注2:自分の絵をそのままトレースしたファン同人誌に憤慨したCLAMPはそれ以後、作品の改悪につながる「ネットでの画像使用」を厳しく制限している。放映時の検閲も一種の改悪なのではないかと思えるのだが、あまねく世界に受け入れられるためにはその国の文化に合わせるというのもまた必要なのだろう。(

注3:スラッシュ君もフランス人も大好きなアメリカの人気ドラマ『フレンズ』に出てくるフィービーという女性キャラのエピソードを思い出してハタと納得した。フィービーが映画のビデオを見て自分が知っている内容と違う! とやたら怒るのだが、どうやら原因は彼女の祖母で、悲惨なシーンに差し掛かるとすぐチャンネルを替えてしまっていたのだ。おかげでフィービーはすべての映画はハッピーエンドであると今までずっと思い込んでいたという。そういう人っているよね、というコンセンサスがあればこそ、シットコム(30分もののシチュエーション・コメディ。アメリカではものすごい数のシットコム番組が放送されている)は笑えるのだ。(

注4:壇からんのネイビーシール(アメリカ合衆国海軍特殊部隊)を舞台とした長編やおい漫画。敵の捕虜になり性的に拷問されたトラウマを持つ美貌の隊長のロイ大尉が、頼れる男気な部下ジムに救済されるまでのお話。確かに二人が別れるなんて結末で終わったら日本人女性だって許さない! かもしれない。制服ものの傑作。(

注5:「それが、どうしたのかね?」というのは、ミッテランが記者に「閣下には愛人がいるそうですね」と聞かれたときの返答だし、シラクがやたらと日本文化に詳しいのは一説には日本人の愛人がいるからだとか。政治家の金銭スキャンダルに対しては非常に厳しいフランスだが(日本人政治家が選挙違反や秘書の給料に使うのに対して、フランス人政治家は個人的贅沢をするための不正使用だという。こんなところもプライベート優先なのか……)、ただ好色なだけで公職を追放されることはない。(

注6:ついでだから沖雅也の「オヤジ、涅槃で待つ」うんぬんについても一通り教えてあげた。余計なお世話だっただろう。また、ジャニーズ結成のきっかけが、当時(少年野球チームとして)皆で見に行ったアメリカ映画「ウエストサイド物語」だったわけだけど、そのハッテンの仕方にはお国柄が出たとも(東京グローブ座の買収話も出ているが、是非、和製ブロードウェイを実現してもらいたいものである)……。(

注7:映画『BIRD』や『ラウンド・ミッドナイト』などを見ると当時の様子がよく分かる。名だたる黒人ジャズミュージシャンがこぞって渡仏し、中にはそのまま永住してしまう者もいた。パリで一世風靡したレビューの女王ジョセフィン・ベーカーは成功した最たる例であろう。とはいえ、今回のテーマとも関係するが、抑圧が無いほうがいい音楽を作れるかというと別問題かもしれないが。(

注8:共にルパート・エヴェレットが出演している。前者はジュリア・ロバーツ、後者はマドンナと。結局美しいゲイ友自慢したかっただけだったんじゃないかって……。(

注9:スラッシュ君も『ふたりは友達? ウィル&グレイス』というヘテロの女性のルームメイトがゲイの親友、というアメリカNBC制作のシットコムをよく見ているが、よせばいいのにグレイス(女)が「どうしよう!」とウィル(ゲイ)にしょっちゅう相談するたびにムカついている。グレイスの甘えに女性が持つ、男を利用するいやらしさや打算を見せ付けられるからだ……って、まるで自分を見ているようだから。要するに自分の嫌な部分を見せ付けられるんでキライなんだよぉ。でもジャック(もう一人の全開なゲイ)役のショーン・ヘイズ(と声優の三ツ矢雄二)の怪演ぶりが見事なのでついつい見てしまう。(

注10:『フレンズ』のレイチェル役、ジェニファー・アニストンが主演のアメリカ映画。原作者は男性の視点から書かれていたが映画ではヒロインの視点から描いていたが、結末まで直していたとは。(

注11:「これは戦争だ。新たな十字軍の戦いだ」とブッシュ大統領は軍事報復を十字軍遠征に例えたが、モンティ・パイソンのメンバー、テリー・ジョーンズがBBCで作った十字軍検証をする歴史番組『クルセイド』(アラブに対する西欧の残虐な侵略行為だったことを暴く)を見ればそれが非常に的を得ていることが分かる。うーんブッシュってバカなのか利口なのか……。(

注12:NHKでこの秋始まるドラマ『ザ・ホワイトハウス』のこと。ブッシュと正反対な、リベラルで有能な大統領が大活躍する。ドラマでウサ晴らしという事らしい。(

注13:1977年に日本テレビで放映された全51話シリーズ。東京ムービー新社製作。作画監督は杉野昭夫。もちろんレミが女の子という世界名作劇場最後の作品『家なき子レミ』(1996)とは別ものである。(

注14:寺山修司の映画『書を捨てよ町に出よう』のテーマソングの一節の『父さん、僕は帰らない』という歌詞に甘酸っぱいものを感じるように「男子の家出」というのはとにかく萌える。スラッシュ君が中学の時、クラスメートの不良男子が「昔は親に『出て行け!』って言われると泣いて許してもらったけど、今じゃ、ならこっちから出てってやるぜ! って感じだよな」と自慢げに語るのを聞いて、一瞬、「昔のそいつ」の父親になりたい! という妄想に駆られた。……とは本人も知らぬまい。(

注15:「パトラッシュ、疲れたろう? 僕も疲れたよ。なんだかとっても眠いんだ」(号泣)(

注16:子どもに聞かせるために『クオレ』(エドモンド・デ・アミーチス著)を買ってみて知ったのだが、『母をたずねて三千里』にあたる部分は原作の「アペンニーノ山脈からアンデス山脈まで」という一節で、ほんの数ページしかない。それをあれだけ膨らませたのだから(制作者も辛かったとはいえ……)日本人は偉大だ。(

注17:貧農の子供がイタリアの都市に煙突掃除夫として売られていた頃のスイスの話(ろくに食べ物も与えられず、煙突にもぐりこんで素手で煤をかき落とした)。世界名作劇場として放映されたのは1995年だが、いまだに人気があり同人誌も書き続けられている。原作の『黒い兄弟』(リザ・テツナー著)も近頃復刊が決まった。(

注18:旧友の遺児(女)を引き取ったことが原因で、ウッディ・アレンとミア・ファーローみたいな家庭内不和が生じ、女の怖さに嫌気がさした男は出家(おいおい……)。男の子を身ごもった遺児は、男が高野山にいることを聞き、息子(石童丸)を連れて会いに行くが、女人禁制のために石童丸だけを入山させる。男は石童丸が息子だと気づくが浮世を捨てた身ゆえ「その男は既に死んだ」とウソをつく。石童丸が母に報を告げに戻った時には母は急病で既に亡く、天涯孤独の身となった石童丸は高野山に戻り、その男の弟子となり、生涯親子の名乗りをあげることはなかったというウルトラ悲劇。(

注19:信徳丸は父の後妻に呪いをかけられ全身が化膿する奇病に。後妻に強く説得された父は不吉な信徳丸を家から追い出してしまう。腐り果て、盲目になり乞食に身を落とした信徳丸だったが、婚約者に発見され、治療するもその甲斐無く、二人して死出の旅立ちを思い立った夜、夢のお告げで病状が急回復。妻の入婿に。やがて父親が没落し乞食となり果てたことを知り、全てを許して家に迎えて孝行したという典型的「ダメ父もの」。折口信夫によれば『身毒丸』(寺山修司/岸田理生作の同作品は演出の蜷川幸雄演が武田真治や藤原竜也などを起用したこともあって若い女性の注目を集めた)と読むのが正しいそうな。寺山氏は『石童丸』のことも好きでよく言及していた。(

注20:男性同士の結束が強いのにホモは禁忌である男性中心社会のこと。イギリスの研究者、イヴ・K・セジウィックが提唱。主な著書に『男同士の絆―イギリス文学とホモソーシャルな欲望』(1985)がある。「やおいはホモソーシャル社会への批判として書かれる」と説明すれば一般男性も納得し、いきおい、やおいものをドンドン読んでくれるというのなら、いくらでも納得してほしいものであるよ。(

[文:スラッシュ君 020913]

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