スラッシュ君
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第27回

<トンデモ受け攻め論>

 第21回で取り上げた「泣き虫受」についての議論だけど、実はまだ延々続いていた。「情けない受けが登場するやおい」を指してアメリカ人は、「日本の古臭い少女漫画や出来の悪いハーレクインロマンスと比べてどう違うのか?」と言うんである。

アメリカ人(以下「ア」)「コンプレックスだらけの情けない主人公が白馬の王子様に救われる、なあ〜んて話のどこが面白いわけよ?」

 対等な二人による緊張感溢れる関係こそスリリングであり、圧倒的に劣っている受けが出てくる話は退屈極まりないとアメリカ人はのたまう。

ア「情けない受けに感情移入できる? 自分に置き換えて楽しめる?」

 と。が、スラッシュ君は思うのだ。やおいを読む時、必ずしも受けに感情移入する必要など無いのではないかと。なかなか堕ちない受けにイライラする攻めに同情して読む時もあるし、時にはどっちにも不幸になってほしいと他人事のように読む場合もあるからだ。

ア「ええええ? 日本のやおい漫画の受けって読者(=女性)の分身なんじゃないの? 受けに自分を投影し、理想的な攻め(=男性)に愛されるのを楽しむ、っていう娯楽だと思ってたんだけど。だから主人公はいつも受けなんでしょ?」

 ……この手の議論は過去何回も出た。その度にスラッシュ君は違うことを言っていた気がする。「より相手を愛しているほう、報われないほうに感情移入するから、そっちが主人公なんじゃないか」とか「境遇が不幸なほうが主人公よ」とか「いい男が主人公かな」とか……。

 が、その点スラッシュは簡単だ。元になるドラマでメインのキャラクターを演じるほうがスラッシュでも主人公(モルダー/クライチェックならモルダーのほうが主人公)だからだ。


<紳士は金髪がお好き>

ア「優れたスラッシュ作品はドラマに忠実に描かれます。だから登場するキャラも正統な理由も無しにやたらと泣いたりはしません。またハーレクインロマンスのようなロマンス・ノベルズではやたらとヒロインを泣かす意地悪な色男が登場し、ヒロインが『なぜ私にこんなヒドイことをするの?』と涙ながらに抗議すると『(お前は)俺のものだから』、な〜んて答えたりしていますよ」

 アメリカ人はアメリカにおけるロマンス・ノベルズの読者層分析結果を持ち出し、ほとんどが学生か主婦という点から、知的なアメリカ人女性はロマンス・ノベルズをあまり好きではなく、ロマンス・ノベルズと同等である「泣き虫受けやおい」ものが嫌いなのは当然である、と結論付けた。

ア「ロマンス・ノベルズのヒロインは美しいのですが、総じて知性に欠けています。これは世間でいうところの『紳士(金や権力のある男)はブロンド(馬鹿な女)がお好き』っていう価値観の反映であると共に、主人公が知的で完璧すぎると気後れしてしまう読者層の志向の表れとも言えます。ただヒロインは必ずしも弱い女性である必要はありません。男性は金髪バイキング女とかボンドガールのような強気な女性を泣かせたいという嗜好もあるからです。ま、知性に欠けるという点ではどちらも同じですが」

 そ、そうなのか。じゃあメガネっ子ヒロインはどうなるんだ? などと聞きたいところだが、日本の今のやおい界にはアメリカほど明確に「教育による読者層の差」があるとはどうも思えない。せいぜいあっても学園モノはティーンエイジャーが好み、リーマンものはOLが好む、くらいのものだろう。

 が、ここで「泣き虫受けやおい=ロマンス・ノベルズ仮説」を認めてしまうと、「知的な読者はやたらと受けが泣く話は嫌い」ということになってしまう。

 そして「●●は泣かしてナンボだよな(●●には好みな受けの名前が入る)」などと日頃から鬼畜な発言を繰り返すスラッシュ君は「知性が足りない」ということになる。まあ、そう思われてもいいのだが、「やおいは主人公である受けに自己投影して読むもの」という一般常識にはこの機会に何か一言(で済まないが)言ってやらなければなるまいと思ったのだ。

 かといって「攻めに感情移入する読者は本当は男性に生まれたかった」というのも何か違う気がする。現実の大抵の「男はつらいよ」だし、外見だってあんまり美しくないからだ。

ア「じゃあスラッシュ君はどっちにも感情移入しないっていうわけ? 自分を登場人物には置き換えないの?」

 とツッコマレた。う〜ん。そういうわけでもないんだな。漫画や小説なんて所詮は他人事なんだけど、それを一時的に忘れさせてくれる作品、読んでて思わず身につまされる作品こそ素晴らしいからだ。感情移入無しにやおいの醍醐味はありえない。

 そこでアメリカ人と様々なパターンで比較分析をしてみた。

・やおい漫画の泣きキャラ VS 少年漫画のキャラ
・スラッシュの中に出てくるキャラ VS やおい漫画の泣きキャラ
・スラッシュの中の泣き受け VS やおいの泣き受け
・現実社会で、西欧文化の中での男性の泣きパターン VS 日本文化の中での男性の泣きパターン
・日本の男性漫画の主人公 VS 脇キャラの泣き度
・日本の漫画 VS 西欧の漫画の男性キャラの泣き度

 上記のパターンごとに議論を重ねていたのだが、だんだん面倒臭くなったスラッシュ君はこの「果ての見えない議論」に終止符を打つべく、得意な屁理屈(詭弁)を弄することにした。


<受けも攻めも「私」?>

スラッシュ君(以下「ス」)「思ったんだけどさぁ、やおいものって受け攻めの両方に自己投影して読むものなんじゃないかなぁ……」

 口からでまかせだったが、自分でも結構いける! と自惚れてしまった。

ス「自分の中には常に正反対の2つの性質が葛藤しているでしょう。今の自分を変えたくないっていう保守的でネガティブな面と、今の自分を変えたいっていう革新的でポジティブな部分。前者を受けに、後者を攻めに投影しているんだと思うのよ」

 勢いにのったスラッシュ君は得意げに受け的性質と攻め的性質とを分類してみせた。

●受け的性質に含まれる性格:
複雑、受難、忍従、平和、博愛、防御的、義務、宿命、苦労家、保守的、古風、和風、弱い、病気、小さい、影、陰、繊細、従属的、不幸、不自由、消極的、平凡、悲惨、哀れ、遅い、伝統的、誠実、純粋、無垢、初心、優しい、懐かしい、優柔不断、依存的、腹芸、終身雇用、和、チームワーク、下積み、無名、友愛。現状に耐える人、現状を守る人 寡黙な人、大人しい人、感情に流されやすい人
=>「今の不幸な自分(だから主人公として愛されやすい)」
  
   
●攻め的性質に含まれる性格:
単純・ストレート、攻撃的、好戦的、反抗的、偏愛、積極的、自由、楽天的、革新的、強い、大きい、日、明るい、がさつ、支配的、情熱的、激昂型、非情、野生的、強引、破壊的、大志、野望、勝利、変化、革命、危険、高速、異端児、ユニーク、個性的、変人、エキセントリック、破天荒、外人、バタ臭い、進歩的、頑丈、健康、活発、MBA(CPA)、リストラ、スタンドプレー、天才、スター、憎悪。現状を変えようとする人、エリート、出る杭は打たれるタイプ、反逆者
=>「未来の成りたい自分(しばしば自分を脅かす敵として描かれる)」
    
ス「やおいは、攻め(=理想の男性)に救われる物語ではなく、受け(=保守的な自分)を攻め(=理想の自分)によって変えようとする物語なわけよ。要するに異性を必要としていないの。それどころか他者も必要としていない。そこが単なるポルノやロマンス・ノベルや本物さんが読むゲイ文学と違うところなわけだ」

 あんまり馬鹿馬鹿しい結論なのでフランス人にも送ってみたところ、素朴に感心されてしまった(おいおい、簡単に騙されるなよ〜)。

フランス人「そんな風に考えたことは無かったですね。なるほど。だから日本の女性はやおいものが大好きなんですね。他の国の女性はやおいを単なる娯楽として捉え、そんな風に肯定的に(一種サイコセラピー的側面がある)は捉えていないと思います」 

 いや、娯楽で全然構わないんだけど(汗)……だがさすがに付き合いの長いアメリカ人は容易に言いくるめられまいと抵抗した。

ア「一体どこから持って来たんだよ、その突飛な論理は? 誰が提唱してるんだぁ?」
ス「い、いや(本当は今思いついたんだけど)フランス人とベルばらの話とかジャンヌ・ダルクの話とかしててさ、どうしてイギリスにはエリザベス女王とかサッチャーとかが登場したのかなって思って……」


 こうなりゃもう出たとこ勝負だ。引っ込みがつかなくなったスラッシュ君は強引に自論を裏付けた。 


<彼女は革命家〜女が革命家に向いているこれだけの理由>

ス「ベルばらって女性読者にすごい人気があったじゃない。で、女性のフランス革命好きって、女性がもともと革命向きだからじゃないかって。女性っていうのは既得権が無い分、しがらみも無いから。ローマ=カトリック教会の支配から逃れたかったイギリス権力者たちも、思い切った宗教改革(カトリックと清教徒の排除とイギリス国教会の完成)を断行する嫌われ役になるのが嫌で、エリザベス女王に押し付けたんじゃないかって思うのよ。イギリス男って老獪だから。サッチャーも鉄の女とか言われて嫌われたけど英国病を克服したじゃん。これが男性政治家(派閥の領袖)だったら圧力団体に屈してたと思うよ。男の人って泣きつかれるとすぐにイイ恰好しようとするじゃない。革命家は旧体制から孤立していないといけなとしたら、社会を変革するような攻め的な性格、革命的性質って女性的性質なんじゃないかって思えてきたわけなのよ」

 女性の欠点として企業で良く言われる、「女性は妥協ができない」「女性に腹芸は無理」「優秀な女性は寛容さに欠ける」「女性には男性に言う『貸しを作る』という美風が理解できない」「女性は社畜になれない」「女性は和を乱す」……などはすべて、「日本的企業で出世するには受け的性質が不可欠だが、女性は受けに徹しられない」(注1)ことを表しているのだ。

 また、現状を維持したがる受け的性質はしばしば女性的と思われがちだが、既得権を守りたがるのは実は男性のほうなのである。現状を変えようとする人たちというのは、今、不幸である人たちであるからだ。新しいことをやってくれそうな政治的指導者は一瞬、女性に大人気になるが、時間が経ちその政策が保守化・オヤジ化・旧体制化・後退するにつれて女性の支持も離れていくものである(誰とは言わないが)。

ス「受けが女性、攻めが男性と思って読んでいると納得いかない場面に結構出会うのよ。それに優秀な女性はみんな女子高出身っていう説があるの知ってる?」

 スラッシュ君は「思春期の女性は身近に異性がいると、生徒会長などのリーダシップが必要とされる要職を男性に譲りがちである。そのため桜蔭など名門女子高の東大進学率は高い」という俗説を持ち出し、「女性が成長するのに必ずしも異性が必要とは限らない、かえって阻害する」と言い追い討ちをかけた。

ス「やおいのテーマが『自己克服』にあるならば、相手は異性ではいけないのよ! 自分で自分を励ます。少なくとも同性から励まされないといけないんだな、これが」 

 なんて便利な説なんだろう〜。「ホモの恋愛を見て何が楽しいんですか?」って怒ってくる人たち向けにもっともらしく説明するには、まさにうってつけだ。が、「カップル文化」(注2)を大事にするアメリカ人にとってはかなりショックだったようでしばらく言い返してこなくなった。

フ「日本人はよく同性同士で固まりますね。映画『バトル・ロワイヤル』でも男子学生は男子同士で女性学生は女子同士で固まっていました。お互い一緒に行動しないのがとても不思議でしたよ」

 相手がひるんでいる間にスラッシュ君はどんどん外堀を埋めることにした。少女マンガからやおい漫画への変遷を自分の論理に都合のいい部分だけをかいつまんだのだ。


<少女マンガがself-esteemの獲得と商業主義によってやおいに進化した>

ス「昔の少女マンガはいわゆる、運命に翻弄される悲劇のヒロインが、突然どこからかやって来た白馬の王子様に救済される話でした。が、その解決の安易さに読者は物足りなさを感じてきたんですね」
 
 折りしも時代は高度成長期。日本人全員が「ガンバッテ」しまった時代だ。少女漫画も例外ではなく、60年代の終わり頃、女性の社会進出と期を一にして男勝りの女性が活躍する漫画が続々と登場した。

 丘けい子の『カリブの女海賊』(1969)やヤクザ少女が活躍するピカレスクの名作、志賀公江の『狼の条件』(1970)、オスカルの前身とも言える男勝りな女性キャラが登場する池田理代子の『桜京』(1971)などだ。

 またこの頃、少年漫画の影響もあって、少女漫画でもスポ根ものが流行した。同じ志賀公江の『スマッシュを決めろ!』(1968)や浦賀千賀子の『アタックNo.1』(1968)、細野みち子の『金メダルへのターン』(1969)や山岸涼子の『アラベスク』(1971)などの「自己努力もの」の登場である。

 これらはすべて努力すれば道は開かれるという成果主義の漫画であった。なので男性漫画家にも書き易く、『サインはV』は神保史郎が原作、望月あきらが画を担当した。この後、池田理代子の『ベルサイユのばら』(1972)(注3)や山本鈴美香の『エースをねらえ!』(1973)の登場でこのタイプの少女マンガは一応の頂点を迎えた。

 ところが70年代も後半に入ってくるとまるで退化したのかというくらい乙女チックな少女マンガが出現した。陸奥A子、田渕由美子、くらもちふさこ、太刀掛秀子らリボンを中心に活躍した女性漫画家である。また少年愛を描く竹宮恵子「風と木の歌」(1976)のように少年しか出てこない少女漫画が一方で誕生した。

ス「いくら努力しても現実はそう甘くなかった。また誰もが強い生き方を目指せるとは限らない、ということに気づき始めたんですね。要するに疲れちゃったんです」

 戦後、進歩的思想がもたらされると共に教育の平等が実現したが、日本の保守的社会は根強く、企業には女性が容易には管理職になれない、いわゆるガラスの天井が存在した。会社に入ると受けに徹しなければならず、妥協ができない知的女性は30歳を前に外国へ逃亡……。努力しても日本的社会では必ずしも出世はできない。出る杭は打たれる……。

ス「思うように生きたくても生きられない悩みを描いた作品にむしろリアルな共感を感じるようになってきたんです。自分がダメなのは両親や先生や彼氏のせいじゃないかと責任転嫁したり、ダメでもいい、そんなダメな自分を、ありのままの自分を愛してやろう、というアダルト・チルドレン的な作品が生まれてきたんですね」

 この傾向が多分、紡木たくの『ホットロード』(1985)に結実したのではないかと思う。スラッシュ君の回りでは賛否両論だったが、この時代の少女マンガのバイブルであったことは間違いない。
 
 『ホットロード』はとてつもなく悲しい。和希の瞳に輝きがないこともさることながら、春山の彼女になれても自分の問題が解決できないことを和希が最初から分かっているからである。少女(恋愛)マンガなのに……。

ス「結局、これらの問題を解決するには『self-esteem(自尊心)』を回復するしか方法が無いことが分かってきたんですよ」

 自分を愛せない人間は他人を愛すこともできない。せっかくの恋愛マンガも自分に自信がないままではちゃんと楽しむことができないんである。

ス「それなら自分が自分を愛する(自分に罰を与えるのも自分。最低な自分を想像して奮起するのも自分)というナルチシズムを描いた漫画、つまり双子のお話がいいじゃないか、ということになるんです」

 萩尾望都の『半神』(1984)や秋里和国の『デッド・エンド - 袋小路 - 』(1985)、森脇真末味の『Blue Moon』(1986)、最近では吉田秋生の『YASHA -夜叉- 』(1996)などの双子ものはどれも歴史に残る名作だ。

フ「なるほど。私が子どもの頃、『Pharoh's Curse(ファラオの呪い)』という題の日本の少女マンガを読んだんですが、自分のものにしようとする多くの男性に翻弄されるヒロインが、ろくな抵抗もせず、ただ運命を受け入れるままだったのがとても不思議でした。それでも私はその中に出てくるとても残酷な性格の銀髪のアラビア王子が、大好きでしたけど。少女マンガには必ずといっていいほど、魅力的な悪役女性が登場しますが、主人公でないほうの双子は大抵悪女ですよね。不良だけど自分の欲望に忠実なタイプ。篠原千絵の17、18巻くらいある長編双子漫画双子もそうでした。善人タイプの主人公は典型的な弱者で、もう片方は性に対して非常に積極的。今の漫画ではないので、無論、奔放なほうが社会的な罰(=最後は死ぬ)を与えられます。私は二人の強い結びつきがとても好きでした」

 フランス人は結構80年代以降の漫画に詳しく、前者は細川知栄子の『王家の紋章』(1976〜)だし、後者は篠原千絵の『海の闇、月の影』(1987)のことである。

フ「最近の『花とゆめ』などを読んでいると(『彼氏彼女の事情』ファン)、男の子たちがとっても大人しいですよね。ヒロインを脅かすタイプの男性があんまり出てこない。多分これは読者全体に自信(self-confident)がついてきたせいだろうし、最近の週刊ジャンプも北条司(熱烈な『シティーハンター』ファン)が描いたような大人っぽいキャラが少なくなったような気がします。そっちのほうはちょっと残念なんですけどね」
 
 が、双子ものに名作が多い一方で、そのナルシズムがどうにも鼻に付くと反発する読者も多い。自意識過剰である自分を潔く認めることができないのだ。

 双子の次に取りうる選択肢としては、「自己を同性同士の他人に分裂させる」方法があげられる。美内すずえの『ガラスの仮面』のような女性同士のライバルものやレズビアンものだ。ところが女性同士だとどうしても内容がシリアスになりすぎるきらいがある。樹村みのりの名作『海辺のカイン』や『母親の娘たち』をアメリカ人に送ってやったところ、「感動しましたが同時にかなり落ち込んでしまいました」と言われた。女性同士の話は読んでいてひどく身につまされる。なので遊び半分では扱えない。シリアスすぎて「売れない」んである。

ス「自分のこともカワイイけど、ステキな他者=男性から愛されたいという欲求もやっぱり捨て難いんですよ。そんな矛盾した女性読者の要望を満たすものとして自己を無力な受けと有能な攻めという男性同士に分裂させて投影させる、やおいが登場したんじゃないでしょうか。女性同士だと陰惨になりがちな対立も、男性同士ならば一歩引いて自分を当てはめることができるので気が楽です。キャラをとんでもない逆境に叩き落したとしても一応、男性は表向き社会的優位者ということになっていますからね。娯楽は漫画の重要な使命の一つですから、対立する二人を男性にすることでお気楽な読み物にできるやおいものが今日のように発達したというわけなんです」


<やおいのルーツはヒンドゥー教?>

 と語ったところで、今まで黙って聞いていたアメリカ人がとうとう怒り出した。

ア「今の不幸な自分と将来のなりたい自分の対比って、白と黒とか、善悪とか、明暗みたいな単なる二元論じゃないの? 善玉と悪役とかキャラクターの単純化って、ストーリーを多くの読者に分かりやすく伝えることができるんで漫画に限らず昔から良く使われてる手じゃない。でも本当は中間のあいまいキャラこそが面白いんだけど」
 
 す、鋭い。単純な勧善懲悪ものがつまらないのはスラッシュ君も同じだからだ。しかしいまさら引っ込みはつかない。

ス「……ん〜でも、キミの言う対立は片方がもう片方に駆逐されるだけの対立じゃない。やおいの受け攻めの場合はどちらがより劣っているというわけではないんだよね。保守と破壊を代表する受け攻めの対立からは成長や新しい価値が生み出されるんだもの。いわゆるシヴァ神とビシュヌ神の対立のようなものよ」

 突然飛び出したヒンドゥー教に当然のことながらアメリカ人は呆れた。

ア「やおい漫画家が何でヒンドゥー教なのよ? そんな教養があるとは思えないんだけど」

 と。さて困った。

ス「ヒンドゥー教は仏教を通して日本に伝わったから。シヴァ神の夜の姿をマハーカーラ(世界を徹底的に破壊する)っていうんだけど、マハーはサンスクリット語で『大』、カーラは『時間』『破壊』『暗黒』という意味があって、日本の大黒天なのね。大黒天は七福神の一人であると共に大国主命(オオクニヌシノミコト)でもあるので(注4)、ヒンドゥー教のことを知らなくたって日本人なら維持と破壊から創造が生まれるっていうのが何となく分かっているんだよ。アジア的な思想なんだろうなあ。西欧にはそういう思想って無いんじゃないの?」

 その後この話題についてアメリカ人から返事が来ることはなかった。当然である。子どもの頃「女の子がやたらと屁理屈を言うんじゃない」と叱られたものだが、「屁理屈もやりすぎると友達を無くす」というのは真実かもしれない……。

(次号へ続く)

注1:大蔵省キャリア二人の愛憎劇を描くかわいゆみこの名作『疵』シリーズでは当然、受けキャラの桐原晃司のほうが司馬彰典よりも出世する。桐原にはストレス性嘔吐という強力な武器があり、ライバルの司馬はこれを出されるとグウの音も出なくなってしまうのだ。(

注2:スタートレック・シリーズ『ボイジャー』は後半、セブンという女性キャラが登場して俄然面白くなった。スラッシュ君にとってボイジャーは女艦長、ジェーン・ウェイとボーグ・クイーンがセブンを取り合う話だったのだが、シリーズ最後に取ってつけたようにセブンと副長のチャコティ(男)をカップルにさせたのには驚き、怒り、呆れ返った。(

注3:アメリカのドラマ『ドクタークイン 大西部の女医物語』(1992)のサリーってなんだかベルばらのアンドレに似てると思った。20年違うんだけどさ。(

注4:
ヒンドゥー教の大黒天は仏教に伝わると釈迦の家来となって悪魔を退治してくれる守護神に大変身。日本では福の神、台所の神に。そして単に音が似ている(大国の音読みは大黒)というだけで、出雲神話の大国主命(スサノオの子孫)と混同し、出雲大社に縁結びの神として祭られる。出雲地方を治めていた先住民を滅ぼした大和朝廷(表向きは天照大神がニニギノミコトを出雲に降臨させ、九州に降臨させたタケミカズチに国を譲らせたことになっているが)が祟りを恐れて鎮魂したから……な〜んて不都合なことは全然アメリカ人に説明していない。当然のことながら。(
 
訂正)第25回注14で、寺山修司の映画『書を捨てよ町に出よう』のテーマソングの一節を「父さん、僕は帰らない」と書いたが、先日サントラを聞き直す機会があり、正しくは「母さん、僕は帰らない」(『母捨記』)だった。その前に入っていた歌のタイトルが『親父なんか大嫌いだのロック』なので間違えたのかもしれないが、自分の都合のいいように記憶を掏りかえることがスラッシュ君にはよくある。第26回のところで触れたCGPでもスラッシュ君は長いこと、大瀧詠一の『さらばシベリア鉄道』の歌は女性視点のみだと思い込み「僕は照れて愛というを言葉が言えず」の部分を無視し、太田裕美が歌っていることも記憶から抹消していた。自分でも怖いくらいだ。でも『飾りじゃないのよ涙は』の歌はやっぱり明菜より陽水のほうが好きだな。

[文:スラッシュ君 021211]

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